農地改革で大地主が減り、面積あたりの土地の所有者が増えたことで、都市開発や道路建設での用地買収や土地改良事業の困難化や長期化を招き、社会資本整備の遅れにつながった。 中国では1946年5月に中国共産党中央執行委員会が「土地政策に関する指令」を出して農地改革に着手[17]。同年9月13日には従来の富農等に対し生計維持に特に必要な財産の保有のみを認め、地主の土地所有権を無効とし、地主や富農等の所有していた家畜、農具、食糧その他の財産を没収する処分が行われた[17]。 他の東アジアの国々と同じく小経営の農業の強化の特徴も持っていたが、受益者には営農実績や経営担当実績のほとんどない者も多く東欧諸国と同様の社会安定の性格も併せ持っていた[2]。農地改革は深刻な過剰人口対策でもあったが、それが一段落すると過小経営による没落や流民化を防ぎつつ食糧問題へ対処することが必要となり、膨大な過小農を吸収しつつ合作社さらに人民公社へと社会主義的な集団化の道を歩むことになった[2]。 「地主」と「小作農」の民族が異なる場合は、土地所有権が他民族に移ることになった。 第二次世界大戦後、ドイツではユンカーが所有していた農地をソ連赤軍に占領されたことで徹底的な農地改革が行われ、ユンカーも完全に解体されるに至った[18]。 東ドイツの受益階層別の土地買受面積(1950年)は、農業労働者42.5%、難民34.8%、零細農12.5%、非農業労働者・職員5.2%で、農業経営への関わりが皆無である者も多く、経営主体として何の蓄積もないか乏しい人々に小土地所有を分け与えるものだった[2]。しかし、従来のグーツ経営は巨大な経営資本を装備する大型技術体系であったため、分割には適しておらず、いわゆる「新農民」は農業経営の経験に乏しく経営資本も劣弱で、1953年には39万6千ヘクタールの耕作放棄地が発生した[2]。そのため農地改革はアンシャンレジームの崩壊や難民流入に対する社会政策としては効果があったが、農業生産力の低下による農業・食糧問題を生じさせた[2]。 東ドイツでは農業生産協同組合LPG(Landwirtshaft Production Gesellshaft)が組織され、当初の実態は経営破綻を余儀なくされた「新農民」の救済策であったが、徐々に大規模化し社会主義的大経営へ移っていった[2]。
中国の農地改革
歴史
民族間の土地所有権移転
東欧の農地改革
脚注[脚注の使い方]
注釈^ ただし帝国政府の考えた方針とGHQの改革内容には大きな違いがある
^ 後にGHQの農地改革担当者、ラデジンスキー博士が和田と会談した際、和田に農地証券がインフレによりただ同然になることを予想していたのかと質問した。和田はイエスといい、「もし、農地証券を物価にスライドさせていたなら、政府の重い財政負担によって今日のような日本経済の成長はなかった。あの時博士が譲歩してくれたのは日本経済のその後の発展への最大の貢献だった」と答えている。
^ 宮城県の南光台は、関兵精麦が土地を失った地主から安く買い取った山林を造成したニュータウンである。
^ 当時の共産主義諸政党の政策方針では、農地は自給用の田畑のみをコルホーズの協同組合経営として認め、残りはソフホーズとして国有化した上で農業従事者は国から土地を借りて耕作するという形での集団化を目指していた。
出典^ 忠則, 吉田. “日経ビジネス電子版
^ a b c d e f g h i j k 野田公夫「農地改革の歴史的意義 : 比較史的視点から