辰国
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概要

三国志』によると、三韓辰韓の前身にあたる国であるとみえる。『史記』によると、辰国に該当すると考えられる地域である真番は臨屯とならんで衛氏朝鮮に服属していた。辰国は朝貢していたが、漢の武帝は、辰国(または真番の諸国)の朝貢を衛氏朝鮮が妨害しているとして、紀元前109年に兵を集め遠征した。武帝は紀元前108年に朝鮮を討伐し、衛満の孫の衛右渠を殺すと、その土地を分けて漢四郡真番郡臨屯郡楽浪郡玄菟郡)を置き、玄菟郡治を沃沮城に置いた。後の辰国(または真番の諸国)の地は三韓とよばれるようになったが、三韓の初出は44年(早くても20年頃)であり、時代が離れており、直接の関係を論証するのは難しい。考古学的には、遼寧省青銅器全羅道で発見されており燕の青銅器文化の影響下にあったことが窺える。したがって、辰国は実在したとしても、衛氏朝鮮の衛星国家であるか漢人の文化的影響下に形成された民族といえる。

史記』『三国志』によると、箕子朝鮮の最後の王である準王は、衛満王権を簒奪されると、南走して辰国へと逃亡し、「韓王」として自立した[3][4]

白鳥庫吉は辰国は辰韓のことであり、辰王は辰韓王であるとした[1]三上次男は辰王は2世紀から3世紀頃に朝鮮半島南部に成立した一種の部族連合国家の君主であったと解釈している[1]

辰韓は辰国が樹立した国であるが秦人に似ているといい、『契丹古伝』は、辰国に多くの秦人が逃げて来ていることを伝えている[5]箕子朝鮮=番朝鮮)は衛満に伐たれて亡び、殷王は辰へ逃げる。秦氏(秦人)も随ったといい、秦人も辰国へ逃げてきており、辰人と混血した[5]。そのために、秦人に似ているとか、秦の言葉に似ているといわれる[5]。燕瞞?殷曰,請背水而國以禦漢寇。殷納封之姑?宇。瞞又?漢曰,胡藏秦華胄請滅之爲郡以絶後患。漢喜給之兵仗。瞞襲取殷,漢進郡阻徐珂。殷王奔辰,秦氏隨徙。殷亡。

燕の瞞(衛満)は殷を説いて云う、水(川)を背にして以て国を漢の侵略から禦ぐことを請う。殷は瞞に姑?宇の地を与えて住まわせた。瞞は今度は漢を説いて云う、胡は秦の華胄を蔵している。之を滅ぼ し郡と為し、以て後患を絶つことを請う。漢は喜び瞞に兵器を与えた。瞞は殷を襲い取る。漢は郡を進め、徐珂を阻止する。殷王は辰に奔走し、秦氏も随う。殷は遂に亡ぶ[5]。 ? 契丹古伝蓋辰者古國。上代悠遠也。傳曰。神祖之後。有辰?謨率氏。本與東表阿斯牟須氏爲一。辰?謨率氏有子。伯之裔爲日馬辰?氏,叔之裔爲干靈辰?氏。干靈岐爲干來,二干隔海而望。干來又分爲高令云。然有今不可得攷焉。其最顯者爲安冕辰?氏。本出東表牟須氏。與殷爲姻。讓國於賁彌辰?氏。賁彌氏立未日。漢寇方薄,其先入朔巫達。?退之。淮委氏沃委氏竝列藩嶺東,爲辰守郭。潘耶又觀兵亞府閭,以掣漢。

蓋し辰は古い国であり、上代より悠遠なり。伝えて曰く、神祖の後、辰?謨率氏有り。本東表の阿斯牟須氏と同一なり。辰?謨率氏に子有り。伯の後裔を日馬辰?氏といい、叔の後裔を干霊辰?氏という。干霊は岐れて干来となり、二千里海を隔てて而して干来を見ることができる。又分れて高令となるという。然るに今はそれを考えることができない。その最も顕著なる者が安冕辰?氏である。本東表の牟須氏の出であり、殷と姻をなす。国を賁彌辰?氏に譲る。賁彌氏が立って未だ日が経たないうちに漢が攻めてきて、方に薄り、その先朔巫達に入る。これを撃退す。淮委氏、沃委氏は並び連なり嶺東に藩をつくり辰の守郭となる。潘耶は又亜府閭に兵を観せ、以て漢を掣む[6]。 ? 契丹古伝

辰(辰?謨率氏)は東表の阿斯牟須氏と同一であるといい、東表とは中原から見て東の表という意味であり、東表は『春秋左氏伝襄公三年に「孟献子日,以敝邑介在東表…」とあり、魯国は東表にあるといい、魯国を含む東方を東表という[6]。辰はこの東表の阿斯牟須氏と同一であるという。辰のルーツは東表であり、その一派が干霊であり、岐れて干来となり、二千里の海を隔てて居すとある[6]。東表から、山東半島に沿い対岸の遼東半島へ渡り、殷人と婚姻をなし、賁彌氏がが立って未だ日が経たないうちにが攻めてきた。淮委氏と沃委氏は並び連なり嶺東に藩をつくり辰の守郭となる。辰を淮委氏や沃委氏という種族が守っている。辰はこれらの種族が主要な民族であることがわかる[6]
位置

魏略』には、「《魏略》曰:初,右渠未破時,朝鮮相?谿卿以諫右渠不用,東之辰國,時民隨出居者二千餘?,亦與朝鮮貢蕃不相往來。(→衛満の孫の右渠王漢武帝の侵略を受ける前に、朝鮮相と歴谿卿は右渠王を諌めたが用いられず、東側にある辰国に亡命したが、その時民のうちで隨う者が2,000余戸もあったという。その後、衛氏朝鮮との関係を絶った。)」と記している[注釈 5]

三国志』には「辰韓者古之辰国也」とあり、3世紀辰韓は辰国の後身とされている。これに対し、『三国志』よりも新しい『後漢書』では「韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西,有五十四國,其北與樂浪,南與倭接,辰韓在東,十有二國,其北與?貊接。弁辰在辰韓之南,亦十有二國,其南亦與倭接。凡七十八國,伯?是其一國焉。大者萬餘?,小者數千家,各在山海間,地合方四千餘里,東西以海為限,皆古之辰國也。」と記しており[注釈 6]三韓の地すべてが昔の辰国であるとしていて『三国志』とは異説となっている。いずれにしろ辰国は辰韓または三韓の前身であるとされている。
初出箇所の問題点

衛氏朝鮮の滅亡とほぼ同時代史料といえる『史記』の朝鮮伝の中で「真番旁衆国」として書かれたのが初出である。この部分は版本によっては「真番旁辰国」になっている。約200年後の『漢書』ではこの部分を「真番辰国」と書いているが、単なる誤写なのか、『漢書』が新しい情報に基づいて訂正したのかが論争となる。またこれらの諸例から類推して「真番衆国」が原形だったと想像することも論理上は可能である。原形がどうであったかによって解釈も以下のように分かれる。

真番旁衆国 - のちの真番郡に該当する地域に隣接して、諸々の小国が存在する一帯があった

真番旁辰国 - のちの真番郡に該当する地域に隣接して、「辰国」なるものが存在した

真番辰国 - (A)のちの真番郡に該当する地域と「辰国」

真番辰国 - (B)のちの真番郡に該当する地域である「辰国」

真番衆国 - (A)のちの真番郡に該当する地域と諸々の小国

真番衆国 - (B)のちの真番郡に該当する地域である諸々の小国

考古学的発掘

辰国の遺跡からは、明刀銭や銅製三角錐鏃が出土しているが、明刀銭は、の平明邑、の新明邑の鋳造であることは古泉家の常識である。また銅製三角錐鏃は楽浪郡の古墳・土城址からも多数発見されており、鉄莖を遺存する例も珍しくなく、漢人通有のとみられる[7]。辰国には種々の人々が逃げてきており、燕の造った明刀銭が大量に出土するのも、燕全盛時にその支配下にあった人々が逃げてきているからである[7]。あるいは燕人衛満亡命してくるときに燕の明刀銭を大量にもってきた可能性もある。これらの遺跡の所在地の特徴について梅原末治藤田亮策は、「禿魯江からは峻嶺狗幌又は狄蹴嶺を越えると清川江の上游に出ることが出来て、それは古来鴨緑江上流地方と平安道海岸地方とを結ぶ主要な交通路に当たっている。今日では文化の光に遠い山間に早くも先秦の貨幣のかくも多数埋蔵されていることは、当然右と連関するものであって、半島の最初の金属文化の流入がこの経路に依ったのを有力に物語るものであらねばならぬ」と述べている[7]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 11世紀に編まれた『資治通鑑』は『漢書』の「真番辰国」とある部分を単に「辰国」とのみ書いている。
^ 今西龍は『史記』の異本の「真番旁辰国」を本来の文と考え、のちの真番郡に該当する地域と辰国は隣接していたと唱えた。
^ 李丙Z(朝鮮語版)(朝鮮語: ???、ソウル大学)は、辰国は小国の集まり(部族連盟体)だから「衆国」と書いても同じ事であり、真番は衛氏朝鮮に属していたが辰国は衛氏朝鮮から独立していたとした。
^ 韓国学界では辰国を歴史上実在した国とし、紀元前3世紀から紀元前2世紀の間に存在した鉄器時代国家であり、細型銅剣文化を有する農耕社会だったとしている。
^ 《魏略》曰:初,右渠未破時,朝鮮相?谿卿以諫右渠不用,東之辰國,時民隨出居者二千餘?,亦與朝鮮貢蕃不相往來。


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