辞賦
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「樗蒲賦」は老子西域へ旅立った後に発明したとされる樗蒲を描き、また「囲棋賦」は囲碁に関する最初期の記述である[60]。後漢の司書王逸は、『楚辞』の諸本の1つ『楚辞章句』の編者として最も有名であるが、2世紀初頭の詠物賦の作家でもある。「茘枝賦」はライチを詩に読んだ最初の作品とされている[61]

曹操の詩壇では、建安の七子として知られる詩人たちがそれぞれに賦を作り、詠物賦の名作の数々を生み出した[62]。曹操がたぐいまれな品質の大きな瑪瑙を与えられ、これを頭絡に仕立てた際には、詩人らは各々「瑪瑙勒賦」を作った[62]。 曹操の宮廷で作られた詠物賦としては、西域のインド周辺のサンゴや貝の素材から作られた椀を詠んだ「車渠椀賦」もある[62]

束ルの賦は中国の食物史によく知られるところである。彼の「餅賦」は、饅頭餃子などの当時はまだ伝統的な中華料理とは言えなかった粉物料理を網羅的に記述している[63]西晋の文学者・傅咸の「紙賦」は、150年ほど前に発明されたについての初期の記録である[64]
諷刺

社会政治諷刺の一手段としての利用は、賦に結びついた伝統の1つである。例えば、実際に受けるべき栄誉や賞賛を与えられず、時の君子や権力者から不当に追放された忠臣を主題とするもの(賢人失志の賦)などである。『楚辞』中の屈原の手になるとされる「離騒」はこうした伝統の最初期の作品として知られ、賦文学の祖であると同時に詩の題材としての政治批判を取り入れた初の作品でもある[65][66]。不当な追放という主題は瀟湘詩の発展とも関連している。これは、形式的またはテーマ的に詩人の追放の悲しみに基づく詩であり、直接的なものもあれば、友人や史上の英雄の人格を借りて隠喩的に行われることもある。隠喩は、皇帝を露骨に非難すれば罪せられる可能性のある詩人の取った安全な諷刺の手段であった[67]。漢代を通じて、賦の形式的な発展とともに、間接的・隠喩的な諷刺を盛り込む手法も発展した。班固は『漢書』において、屈原の賦を賢人失志という主題を文学的主題に用いた例として言及している。

形式的な面から言えば、このような主題を持つ作品は、騒体賦の形をとることが多い。四言を基調とし、事物の陳述を志向する詠物賦の形式に対して、楚の訛りを持つ騒体賦の音調は抒情性を含むものとして志向される傾向にあったからである。言い換えれば、漢代には文体や主題を異にする2種類の賦が行われたことになる[68]中国学者ヘルムート・ウィルヘルム(英語版)は次のように述べる。「(…)漢賦は数種類の類型に容易に分類することができる。全ての類型にはある特徴が共通して見られる。ほぼ例外なく、賦は批判を表明するものとして解釈でき、またそう解釈されてきた――時の君子に対して、あるいは君子の行いや、君子の下す特定の法や計画に対して。また権力者の寵愛する権力者を諫める場合もあれば、一般に、分別なく役人を重用することも批判の対象となった。前向きな色合いの賦で、作者自身やその仲間の重用をすすめる、あるいは特定の政治的な示唆を含む例はほとんど存在しない。端的に言えば、ほぼすべての賦は政治的な意図を含んでおり、加えてそのほとんどは君子とそれに仕える家臣の関係に関するものである。」[69]
日本での受容

日本へは『文選』の受容とともに遅くとも7世紀には伝わっていたと推定される[70]。『万葉集』の長歌に添えられる反歌は、作品の末尾に「乱」を付す辞賦の形式に学んだものであるとする説が有力である[71]。万葉集にも歌を詠む意で「賦す」という表現が用いられているが、ここでの賦とはいわゆる長歌のことである。ただしこの表現はほぼ大伴家持による公儀の場での使用に留まっており、賦と題する歌は家持らによる「越中三賦」のほか類例を見ない[72]

『古今和歌集』仮名序には、『毛詩』序の六義に即して賦を「かぞへ歌」と述べている。中国で普遍的であった、六義における賦と文体としての賦を結びける考え方を踏まえたものであるが、「かぞえ歌」が実際にどのような和歌を指すものかは議論があり、感じたことを直叙した歌とも、物名を詠み込んだ歌とも言われる[73]

文章経国思想の興った平安時代初期には漢文の賦もいくつか作られている。9世紀初頭の『経国集』に17篇、11世紀半ばの『本朝文粋』にも平安朝に作られた賦15篇が収められ、菅原氏大江氏をはじめとする平安貴族の賦への愛好をうかがうことができる。ただし大陸は既に中唐?晩唐のころとあっていずれも駢賦・律賦の影響を受けた小ぶりなもので、漢賦のような派手さや唐詩ほどの存在感は見出せず、日本の漢詩文詩壇において賦が定着することはなかった[46][74]。この時期漢賦の問答体や戯曲的構成を受け継いだ作品としては、わずかに空海の『聾瞽指帰』などがある[74]

その後国風文化の隆盛とともに賦も廃れていくが、その後も『文選』は日本人の間で参照され続けた。「ゆく川の流れは絶えずして…」に始まる『方丈記』の序文は、『文選』中の陸機「歎逝賦」を踏まえたものであることが古くから知られている[75]五山文学の興隆した14世紀前後には再び賦が顧みられ、虎関師錬をはじめとする禅林僧らによって賦が盛んに作られた[76]

近世には松尾芭蕉らが俳文と呼ばれる文学ジャンルを興した。これは俳諧の性質を日記紀行文などの散文に応用したもので、確固とした定義は明らかでないが、漢文に準じて典故の利用、対句などで調子を整えた語りの文体で、主題(底意)や諷刺性を伴うものと考えられる[77][78]


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