後漢のもっとも著名な賦作家は張衡と蔡?である。張衡の著にはかなりの数の賦があり、後漢の典型となる短篇の賦の祖となった[24]。張衡の最初期の作として知られるのは、のち唐の楊貴妃に愛されたことで有名となる驪山温泉(今日の華清池)を述べた「温泉賦」である[24]。 「二京賦」も張衡の傑作として知られる[25]。張衡は、漢代の2つの都・洛陽と長安を比較した班固の「両都賦」への応答として、10年に及んで賦の素材を収集した[25]。張衡の賦はきわめて風刺的で、武帝をはじめとする前漢期の特徴を巧みに模倣する[26]。この作品は、歓楽街を含めた二都の華やかな生活を緻密に描いている[27]。
蔡?は張衡と同様に、数学・天文・音楽への興味に加えて、多作な文章家であった[28]。159年、蔡?は帝の前で古琴を弾くため長安に招かれたが、到着直前に病気になり、故郷に帰った[28]。彼の最も著名な賦「述行賦」では、その旅程が詩につづられている[28]。「述行賦」では、歴代の不誠実で不正直な君臣の例を引き、同様の罪で都の宦官を批判している[29]。
2世紀後半から3世紀初頭にかけて多くの賦作家が大詩人と見なされるが、その特徴は漢王朝滅亡後の混乱と荒廃を描写した点にある。192年の董卓暗殺の後、漢の遺民となった王粲は、「登楼賦」と題する有名な賦を作った。これは王粲が荊州付近にあった楼閣に登り、旧都・洛陽の方角を物憂げに眺めるさまを動的に描いたものである[30]。禰衡の「鸚鵡賦」のように、詩人はしばしば賦の主題を自らになぞらえて用いた。禰衡は「鸚鵡賦」で、才能がありながら重んじられず、囚われの身のために発言も思うがままにならぬ学士としての境遇を、籠の中のオウムに託けた[30]。三国時代、英雄曹操とその息子曹丕・曹植の邸宅は詩壇となり、この遊苑から生まれた多くの賦が今日まで残っている(建安文学)。 六朝の間には詩が徐々に台頭したが、賦は六朝文学の中で未だ主要な地位を占めていた[30]。晋の左思が魏・呉・蜀の都の壮麗さを詠んだ「三都賦」が当時あまりにも人気を博し、人々が競ってこれを書き写したために、洛陽の紙価が上がったという逸話は有名である[31]。梁代には古典文学史上最大の文芸集『文選』が編まれているが、賦はこの中で全37ジャンルの冒頭に置かれている[32]。『文選』は漢初から梁までの全ての賦を集めており、以来賦研究の上での伝統的資料となった。現存する漢賦やその他の詩の大部分は、種々の作品に引かれたものを含め、『文選』などに残されたものである。 抒情賦(辞)と詠物賦は漢王朝ではまったく異なる体裁を取っていたが、2世紀以降はほとんど区別がなくなった。 漢帝国の衰亡に伴って、宮廷文学としての華美な大賦の形式は消滅していく一方、詠物賦は引き続き広く作られた[30]。西晋の陸機以降は、四字句や六字句を多用する文体が定着し、美文化の傾向が著しくなる[33]。魏晋南北朝期の賦の形式を駢賦(俳賦)とも言う。 謝霊運は六朝期を通じて、陶淵明に次いで最も有名な詩人の一人である。やや上の世代の陶淵明とは対照的に、謝霊運は難語や暗喩、対句を多用する[34]。 謝霊運の代表作は、司馬相如の「天子遊獵賦」の形式に範を取り、漢の大賦に似せて私有地を描いた「山居賦」である[35]。 古典的な漢賦と同様、この詩では僻字・難字を多用するが、「山居賦」には 謝霊運自身の注が添えられている点で独特である[35]。 南朝梁代、依然として賦は文体として人気を博したが、五言詩や七言詩が台頭し始め、唐代にかけて詩は完全に賦に取って代わることとなる[36]。謝霊運の「山居賦」をオマージュした沈約の「郊居賦」など古典的な賦の形式を継いだ作品もあったが、これに従わないものも多くなった[36]。
六朝