「賦」字の解釈をめぐっては、古来2つの文脈があった。1つには『周礼』の鄭玄注に「賦之言鋪、直鋪陳今之政教善悪(賦の言は鋪なり、直だ今の政教の善悪を鋪陳す)」と言い、賦を鋪(=敷く・並べる)、つまり言葉を並べるものと定義する[7]。また一方班固は『漢書』芸文志において、「不歌而誦謂之賦(歌わずして誦す、之れを賦と謂ふ)」と定義する[3]。 賦はしばしば『楚辞』から派生したとされる。『楚辞』はシャーマニズムの祭祀音楽に由来することが知られているが、これが時代を経てメロディを失うとともに、諸子百家らの修辞的な弁論術の影響を受けて、口誦文学としての賦の発生につながったと考えられる[8]。実際に、『戦国策』にみる縦横家の弁舌や荀子の『賦篇』、そして南方に興った『楚辞』には、問答体の文章構成、羅列的・重畳的表現で賛美を尽くす技法など、漢代の賦につながる要素が共通して数多く含まれている[9]。『楚辞』中の「卜居」「漁父」の2篇は漢代の賦の先駆と言ってよい[10]。 代表作「離騒」をはじめとする屈原の作品は、その弟子とされる宋玉らの作品とともに「騒体賦(騒賦)」と呼ばれ、後世の賦の形式・内容の源流をなした[11]。「離騒」に特徴的な形式や抒情性を受け継いだものを前漢以降特に辞と呼び、辞と賦とを併せて辞賦と称することもあるが、両者の区別は必ずしも判然とせず、賦はしばしば辞を含めた包括的な文体名としても用いられる。一方で朱熹が『楚辞後語』で「長門賦」に言及したように、賦と題する作品でも辞に含められることもある[11]。 年代の明らかな現存最古の賦は、紀元前170年頃に作られた賈誼の「?鳥賦」である[12]。賈誼の現存の作中に、彼が長沙への流謫に際して「離騒」になぞらえて作った賦に言及しているが、この作品は散逸している。 賦の最盛期は漢初である。紀元前2世紀の賦の黄金時代には、優れた賦作家の多くが楚から現れた[13]。前170年ごろの賈誼「?鳥賦」は長沙への追放の3年後に書かれたものであり、「離騒」ほか屈原の作の形式に倣っている。「?鳥賦」は知られている最古の作品であると同時に、作者の人生における立ち位置について思索を広く述べている点で特異である[12]。前漢の梁王劉武の屋敷で賦を競う人々。(宋・「梁孝王梁園文学会」) 景帝は辞賦を重んじなかったため、枚乗や鄒陽ら当時の賦家は呉の劉?や梁の孝王の下に集い、多くの賦を世に遺した[14]。前141年に王位を継いだ武帝の54年に及ぶ治世は、大賦(古賦)の黄金時代と言われる[13]。武帝は長安の宮廷に名だたる賦家を呼び寄せ、多くの作家が賦を宮廷中で披露した[13]。武帝の治世における最初期の大賦は枚乗による「七発」である[13]。この「七発」以来、賦は道徳的・啓蒙的内容を述べながら虚飾的な耽美性をもつという相矛盾する性質を備えるようになる[15]。 大賦の黄金時代を築いた作家の中で、司馬相如は白眉と見なされる[12]。成都の生まれで、武帝が偶然彼の作「子虚賦」を読んだ際に彼を宮廷に招いたと言われる(この逸話はおそらく後付けである[13])。前136年に都に上ると、司馬相如は「子虚賦」を傑作「上林賦」に発展させた。この賦は一般にもっとも有名な賦とされる[16][12]。原題は「天子遊獵賦」だったとされ、長安の東に作られた皇帝の狩場を称えるものであるが[12]、奇語・難語や僻字を多用し[17]、西晋の郭璞による注釈がなければ今や解読しえないものであった。次の一節は「子虚賦」の前半、鉱物・貴金属・動植物の名前を押韻しながら列挙する部分であるが、事物の陳述と奇語の多用という大賦の特徴をよく示している[18]。 司馬相如「子虚賦」抄(太字は韻字を示す)
歴史
起源
漢代
前漢
雲夢者、方九百里、其中山有焉。 .mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}雲夢(うんぼう)は方九百里、其(そ)の中に山有り。
其山則、盤紆?鬱、隆崇イ?、岑崟參差、日月蔽虧。 其の山は則(すなわ)ち盤紆?鬱(ばんうふつうつ)、隆崇イ?(りゅうすうりつしゅつ)、岑崟參差(しんぎんしんし)として、日月(じつげつ)は蔽虧(へいき)す。