辞賦
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紀元前2世紀の賦の黄金時代には、優れた賦作家の多くが楚から現れた[13]。前170年ごろの賈誼「?鳥賦」は長沙への追放の3年後に書かれたものであり、「離騒」ほか屈原の作の形式に倣っている。「?鳥賦」は知られている最古の作品であると同時に、作者の人生における立ち位置について思索を広く述べている点で特異である[12]前漢の梁王劉武の屋敷で賦を競う人々。(宋・「梁孝王梁園文学会」)

景帝は辞賦を重んじなかったため、枚乗や鄒陽ら当時の賦家は呉の劉?や梁の孝王の下に集い、多くの賦を世に遺した[14]前141年に王位を継いだ武帝の54年に及ぶ治世は、大賦(古賦)の黄金時代と言われる[13]。武帝は長安の宮廷に名だたる賦家を呼び寄せ、多くの作家が賦を宮廷中で披露した[13]。武帝の治世における最初期の大賦は枚乗による「七発」である[13]。この「七発」以来、賦は道徳的・啓蒙的内容を述べながら虚飾的な耽美性をもつという相矛盾する性質を備えるようになる[15]

大賦の黄金時代を築いた作家の中で、司馬相如は白眉と見なされる[12]。成都の生まれで、武帝が偶然彼の作「子虚賦」を読んだ際に彼を宮廷に招いたと言われる(この逸話はおそらく後付けである[13])。前136年に都に上ると、司馬相如は「子虚賦」を傑作「上林賦」に発展させた。この賦は一般にもっとも有名な賦とされる[16][12]。原題は「天子遊獵賦」だったとされ、長安の東に作られた皇帝の狩場を称えるものであるが[12]、奇語・難語や僻字を多用し[17]西晋郭璞による注釈がなければ今や解読しえないものであった。次の一節は「子虚賦」の前半、鉱物・貴金属・動植物の名前を押韻しながら列挙する部分であるが、事物の陳述と奇語の多用という大賦の特徴をよく示している[18]

司馬相如「子虚賦」抄(太字は韻字を示す)
雲夢者、方九百里、其中山有焉。 .mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}雲夢(うんぼう)は方九百里、其(そ)の中に山有り。
其山則、盤紆?鬱、隆崇イ?、岑崟參差、日月蔽虧。 其の山は則(すなわ)ち盤紆?鬱(ばんうふつうつ)、隆崇イ?(りゅうすうりつしゅつ)、岑崟參差(しんぎんしんし)として、日月(じつげつ)は蔽虧(へいき)す。
交錯糾紛、上干青雲、罷池陂?、下屬江河。 交錯糾紛(こうさくきゅうふん)として上に青雲を干し、罷池(ひち)は陂?(はた)として下に江河を屬す。
其土則、丹青赭堊、雌黄白坿、錫碧金銀。 其の土は則ち、丹青・赭堊(しゃあ)・雌黄(しこう)・白坿(はくふ)・錫碧(しゃくへき)・金銀。
衆色R耀、照爛龍鱗。 衆色はR耀(げんよう)、照爛(しょうらん)として龍鱗(りゅうりん)たり。

この作品をはじめとして大賦には、部首の視覚的統一や双声・畳韻(音韻的に類似する語を重ねるオノマトペ的表現)といった用字上の工夫が凝らされた[19]。「イ?」や「岑崟」といった『説文解字』やその他の甲骨文金文などにほとんど例を見ない奇字や奇語の類が多く出現するのは、その結果として起こったものである[20]。このように大賦は視覚的・聴覚的な鑑賞に堪える芸術作品であり、その発展は書法絵画吟詠といった諸芸術の発展とも軌を一にしていた[21]

これらは純粋な詩的遊戯として朗読し披露され、制約にとらわれない娯楽と道徳的訓戒を一作品の中に融合させた最初の中国文学であった[22]。しかし武帝の宮廷文化は、賦に大言壮語を尽くした結果、風紀をただす機会を逸したと後に批判され始めた[23]。大賦批判の急先鋒は、漢の作家の一人であった揚雄である。若き揚雄は司馬相如を賞賛し模倣していたが、のちに大賦に批判的になる。彼は賦の本来の目的は「諷」、つまり主君に諷諫することにあると考えていたが、賦の過度に修辞的な主張と複雑な語彙とが、聞く者・読む者をして美的な面にのみ驚嘆せしめ、道徳的な内容が抜け落ちてしまったと考えたのである[23]。揚雄は漢初の賦と『詩経』の賦に似た作品を並べて、『詩経』の詩は道徳のあるべき姿を述べていたが、漢代の賦は「必也淫(行き過ぎている)」と述べる[23]。漢代の賦の大家として知られる一方で、揚雄の賦は受け手に道徳的規律を促していることでよく知られる[17]
後漢

後漢のもっとも著名な賦作家は張衡蔡?である。張衡の著にはかなりの数の賦があり、後漢の典型となる短篇の賦の祖となった[24]。張衡の最初期の作として知られるのは、のち楊貴妃に愛されたことで有名となる驪山温泉(今日の華清池)を述べた「温泉賦」である[24]。 「二京賦」も張衡の傑作として知られる[25]。張衡は、漢代の2つの都・洛陽と長安を比較した班固の「両都賦」への応答として、10年に及んで賦の素材を収集した[25]。張衡の賦はきわめて風刺的で、武帝をはじめとする前漢期の特徴を巧みに模倣する[26]。この作品は、歓楽街を含めた二都の華やかな生活を緻密に描いている[27]

蔡?は張衡と同様に、数学・天文・音楽への興味に加えて、多作な文章家であった[28]159年、蔡?は帝の前で古琴を弾くため長安に招かれたが、到着直前に病気になり、故郷に帰った[28]。彼の最も著名な賦「述行賦」では、その旅程が詩につづられている[28]。「述行賦」では、歴代の不誠実で不正直な君臣の例を引き、同様の罪で都の宦官を批判している[29]

2世紀後半から3世紀初頭にかけて多くの賦作家が大詩人と見なされるが、その特徴は漢王朝滅亡後の混乱と荒廃を描写した点にある。192年董卓暗殺の後、漢の遺民となった王粲は、「登楼賦」と題する有名な賦を作った。これは王粲が荊州付近にあった楼閣に登り、旧都・洛陽の方角を物憂げに眺めるさまを動的に描いたものである[30]禰衡の「鸚鵡賦」のように、詩人はしばしば賦の主題を自らになぞらえて用いた。禰衡は「鸚鵡賦」で、才能がありながら重んじられず、囚われの身のために発言も思うがままにならぬ学士としての境遇を、籠の中のオウムに託けた[30]三国時代、英雄曹操とその息子曹丕曹植の邸宅は詩壇となり、この遊苑から生まれた多くの賦が今日まで残っている(建安文学)。
六朝

六朝の間にはが徐々に台頭したが、賦は六朝文学の中で未だ主要な地位を占めていた[30]。晋の左思の都の壮麗さを詠んだ「三都賦」が当時あまりにも人気を博し、人々が競ってこれを書き写したために、洛陽の紙価が上がったという逸話は有名である[31]代には古典文学史上最大の文芸集『文選』が編まれているが、賦はこの中で全37ジャンルの冒頭に置かれている[32]。『文選』は漢初から梁までの全ての賦を集めており、以来賦研究の上での伝統的資料となった。現存する漢賦やその他の詩の大部分は、種々の作品に引かれたものを含め、『文選』などに残されたものである。

抒情賦(辞)と詠物賦は漢王朝ではまったく異なる体裁を取っていたが、2世紀以降はほとんど区別がなくなった。 漢帝国の衰亡に伴って、宮廷文学としての華美な大賦の形式は消滅していく一方、詠物賦は引き続き広く作られた[30]


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