辛亥革命
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1905年夏、孫文は日本で興中会、華興会、光復会等の各団体を団結させることに成功、8月20日に東京にて中国同盟会が組織され[1]、「駆除韃虜、恢復中華、創立民国、平均地権」を定めた綱領が『民報』(旧名は華興会機関紙の『二十世紀之支那』、同盟会成立後に改称)上に発表された。同盟会は積極的な宣伝活動を行い、大衆への啓蒙を通じて革命運動を大衆運動へと拡大させていった。『民報』は章炳麟、陶成章らが主筆となり胡漢民汪兆銘が執筆。康有為梁啓超が主編した保皇派機関紙であった『新民叢報』と論戦を繰り広げた。

この他の革命団体は下記の通り。
共進会
1907年7月、同盟会の一部より長江流域での革命発動を行うべきと主張する劉揆一、焦達峰、張伯祥、孫武などが東京にて共進会を組織し、同盟会と共に武昌起義を指導していくこととなった。
日知会
1906年2月に劉静庵を代表成立、孫武張難先、何季達、馮牧民など百名以上が参加し、後に同盟会湖北分会期間となった。
南社
1906年より江南地区では陳去病等により黄社、神交社、匡社等の文学団体が設立され、1909年に南社が誕生、文学作品を通した新思想の啓蒙が行われた。
文学社
1911年1月30日、振武学社は文学社と改名され、?翊武を社長、・大悲を文書部長、劉復基を評議部長に選出した。文学社は新軍内部の青年軍人組織であり、革命思想の新軍内部への浸透と武器調達を担当し、武昌起義で指導的な役割を果たした。
革命構成員

辛亥革命は帰国した留学生や知識人のみならず、各会派に参加した一般群集、海外華僑、新軍兵士、地方士紳や農民など幅広い出自層による革命であった。
新興知識人

新興知識人は海外で新知識を学んだ留学生と新式学堂で学んだ学生が主体である。科挙制度廃止後、清は西欧式教育を導入すると共に海外留学を奨励した。陶成章の提唱のもと、徐錫麟を初めとする多くの留学生が日本を始めとする海外で最新の軍事教育を受けて帰国している。

1900年代、清国では日本留学熱が高まり、辛亥革命直前には数万人が日本で留学していた。日本で学ぶ留学生の周辺には革命思想が浸透し、1905年の中国同盟会が東京で成立した際には90%以上の会員が日本で学ぶ留学生であった。また日本で軍事教育を受けていた同盟会会員による丈夫団も結成されている。日本留学した学生等は辛亥革命の中で大きな役割を果たし、指導者の孫文を初め、黄興、宋教仁、胡漢民、廖仲ト、朱執信、汪精衛(汪兆銘)等の革命指導者の殆どが日本留学の経験者であった。
結社参加者

清末期、各地で洪門天地会五房の長房青蓮堂、二房洪順堂、三房家后堂、四房参太堂、五房宏化堂または別の四川発祥の哥老会などの秘密結社が結成され、反清活動を展開した。これらの秘密結社に参加したのは地主士紳、農民、手工業工者、商人などであり、士兵を初めとする都市で生活する各階層の民衆や無頼漢によっても構成され、地主士紳階層が中心となり「反清復明」の思想を提唱した。

哥老会は華興会を、青幇は光復会を、三合会は興中会とそれぞれ親密な関係を構築し、孫文もかつては広東省由来の洪門二房洪順堂会派の致公堂の会員であった。1908年以前、革命人士はこれらの結社と緊密な連絡のもと武装蜂起の準備をすすめ、清打倒に重要な役割を果たした。
海外華僑

海外華僑も辛亥革命の中で重要な役割を果たしている。海外華僑はそれぞれの居住地で同盟会に対する資金援助を行うと同時に、帰国後出身地で革命団体を組織、多くの武装蜂起に参加した。1894年11月、孫文がサンフランシスコで興中会を結成した際には20数名の華僑が参加している。また、黄花崗72烈士でも海外華僑が29名を占めるなど、少なからず華僑が参加している。
新軍兵士

1908年以降、革命派の革命運動は群集運動から新軍内の同調者獲得に重点が移り、革命人士は新軍内で秘密裡に革命思想の普及に努めた。科挙制度の廃止により多くの青年知識人が新軍に加盟しており、文学社社長の?翊武を初め劉復基、・大悲、王憲章、張廷輔、蔡大輔、王文錦などが当時の新軍内部のメンバーであった。
士紳及び商紳

1907年9月から10月、清朝は資政院(中国語版)及び諮議局(中国語版)を設置、士紳及び商紳への参政の機会を提供した。1909年新疆省を除く各省に諮議局が設置され多くの士紳、商紳が選挙(中国語版)により諮議局に選出され、各省の諮議局による間接選挙(中国語版)で資政院の民選議員(98議席)が選出された。地方士紳の政治力は地方政治の中で突出した地位を占めた。

これらの士紳、商紳は本来は立憲派であったが、その後発足した内閣が朝廷主導であったことに失望、武昌起義以降、立憲派も辛亥革命に参加するようになった。
外国人

辛亥革命を支持する外国人も少なからず存在し、特に梅屋庄吉などの日本人による支援が顕著であった。東京で成立した同盟会を初め多くの革命団体が日本で組織・運営され、北一輝を初めとする日本人も同盟会に参加し、武装蜂起に参加した日本人にも多くの死亡者が出ている。
革命の準備

1895年から1911年にかけて興中会及び同盟会により合計10回の武装蜂起が実行された。これらの武装蜂起は短期間で失敗したが、革命思想を中国に普及させることにつながった。
第一次広州起義

1895年春、香港を中心とする興中会は第一次広州起義を計画、陸皓東により革命旗である青天白日旗がデザインされた。10月26日、孫文、楊衢雲は鄭士良、陸皓東を率いて広州に到着、武装蜂起による広州占拠の準備に入った。しかし計画は事前に清朝の知るところとなり、陸皓東は逮捕され命を失っている。「第一次広州起義」の失敗が宣言され、孫文及び楊衢雲は清朝の手配されるところとなった。香港当局は清朝の圧力により両名に5年間の入国を禁止、孫文の日本、アメリカ、ロンドン等への海外亡命生活が始まり、各地で革命の宣伝と活動資金の募金が行われることと成った。
恵州起義

1900年、義和団の乱が発生すると華北地方は無政府状態となったため、この機会に乗じて武装蜂起が計画された。6月、孫文と鄭士良、陳少白、楊衢雲及び宮崎滔天平山周内田良平などが横浜から香港に到着したが、イギリス当局により入国を拒否されている。9月25日、孫文は黒龍会の支援の下、馬関を経て台湾に移動、台湾総督府民政長官と会談し、台湾総督府の広州武装蜂起の支持を獲得した。孫文は台北市に武装蜂起司令部を設置、10月8日に孫文は鄭士良等に命じ恵州三洲田(現在の深?三洲田)で武装蜂起を指示した(恵州起義、庚子革命、庚子首義、三洲田首義等)。決起軍の規模は2万人に拡大したが、台湾総督府官僚の態度が変化し、補給と軍人の参加の約定が覆されると、革命軍は物資補給に困窮し解散、間もなく清により失敗宣言が出された。この武装蜂起では史堅如、山田良政などが命を落としている。孫文は決起失敗後に日本当局により日本に移送されている。


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