辛亥革命
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顧乃斌率いる第八十二標第三営[8] と決死隊主力(張伯岐率いる第1、2隊、董夢蛟率いる第3隊)、尹鋭志(光復会、女性)等は撫台衙門を、第5隊は旗城門下(中国語版)を占拠[9]、楊廷棟が兵を率いて巡撫府を包囲、巡撫増?を捕虜とした。翌5日午後に代表署理として杭州将軍コ済が軍政府に投降し、革命勢力は杭州を支配、浙江革命軍を名乗り、周承?が総司令に就任、都督には童保暄を立てる予定であったが、最終的に立憲派であった浙江諮議局議長の湯寿潜を都督に選出した。

11月5日、江蘇省の立憲派及び紳商は江蘇巡撫程徳全に対し蘇州の独立宣言を要求、江蘇革命軍政府が成立し程コ全が都督に就任した。

同日、安徽同盟会の呉暘谷等は標炮営を指揮し武装蜂起、省城安慶を攻撃した。立憲派勢力は安徽巡撫朱家宝に対し独立を勧告、11月8日に安徽諮議局は独立を宣言、朱家宝を都督に、王天培を副都督に選出した。

11月6日、広西諮議局在は省城の桂林で清朝からの離脱独立を決定、広西の独立を宣言した。当初は清朝巡撫沈秉?が都督とされたが、数日後に清軍提督陸栄廷が政変により都督に就任している。

11月9日、福建同盟会の鄭祖蔭、彭寿松、許崇智、陸軍第十鎮統制の孫道仁等により福州で武装蜂起した。清朝総督松寿は自殺し、11月11日に福建での光復が宣言されて福建軍政府が成立、孫道仁を都督に選出した。

10月末、広東同盟会会員の陳炯明ケ鏗及び彭瑞海等は広東化州、南海、順徳、三水などで民間軍による武装蜂起を決行、11月8日には胡漢民の勧告の下、広東水師提督李准及び陸軍第二十五鎮統制竜済光らにより両広総督張鳴岐に各方面の代表を召集させ広東の独立問題を協議、翌日広東独立が決定された。11月9日、陳炯明は徽州を占拠、同日広東の独立が宣言されて軍政府が成立、胡漢民を都督に、陳炯明を副都督に選出した。

11月12日、山東煙台同盟会の欒鍾堯、宮錫徳等の「十八豪傑」と称される同盟会会員により武装蜂起が決行され、煙台海防営を占拠した。煙台道台徐世光(中国語版)は武装蜂起を知ると家族を連れ海関税務司のイギリス人マイヤー公館に保護を求め青島に逃亡、煙台の独立が宣言されて山東軍政府が成立、陳其美が都督に選出された。11月13日、山東革命党の丁惟汾の勧告と陸軍第五鎮統制賈賓卿等中下級軍官らの強い圧力の下、山東巡撫孫宝gは山東の独立を承認、孫宝gを都督に選出しているが、11月24日に孫宝gは独立を取り消すなどの混乱が続いた。

11月17日、寧夏同盟会支会は寧夏会党による武装蜂起を決行、23日に銀川で支那寧夏革命軍政府が成立した。

11月22日重慶では大漢蜀北軍政府が成立、27日は四川鄂軍により督弁鉄道大臣の端方を殺害している。

11月22日、成都四川官紳代表大会は四川独立を宣言、大漢四川軍政府が成立、立憲党の蒲殿俊を都督に選出した。26日、四川総督趙爾豊は独立文書を発表、政治権力を軍政府に移管した。革命軍に投降する清軍

11月8日、同盟会会員の指導により陸軍第九鎮統制徐紹南京城外60里の秣陵関で武装蜂起を宣言した。徐紹驍ニ上海都督・陳其美及び江浙聯軍の協議により連合軍を組織して南京を攻略することを決定、徐紹驍江浙聯軍総司令に任命、11月11日に江浙聯軍司令部が鎮江に成立した。11月24日から12月1日(旧暦9月11日)、徐紹驍フ指揮の下、後に黄興も指揮に参加し連合軍は烏龍山、幕府山、紫金山、雨花台、天保城等の拠点を占拠した。両江総督張人駿(中国語版)と江寧将軍(中国語版)鉄良は同日夜に日本軍艦に逃亡し上海へ亡命。12月2日に南京城を攻略、これにより長江以南の地域はすべて革命軍の支配下に置かれることになった。3日、宋教仁の提案で都督府は蘇州から南京へ移転[10]

12月2日、駐漢口イギリス領事の斡旋により武漢革命軍と清軍の間で停戦協定が成立した。

1911年12月28日、迪化にて新疆督練公所教練官の劉先俊らが挙兵するも、新疆巡撫袁大化によって鎮圧され、劉ら主要メンバーは処刑される[11]。1912年1月7日午後12時ごろ、伊犁混成協統領楊?緒(中国語版)(イリ革命党)、同執事官李輔黄(中国語版)、書記官馮特民(中国語版)、ケ宝珊(中国語版)(同盟会)、哥老会回族首領馬得元らが霍城県の恵遠城(中国語版)将軍署および南北の軍械庫を襲撃した。袁大化は新疆提法使楊増新にこれを鎮圧させようとしたが、楊は迪化に駐屯したまま動こうとしなかった。軍械庫では激しい応戦が行われ戦線が膠着したため、前伊犁将軍の広福により停戦交渉が行われた。伊犁将軍志鋭(中国語版)は処刑され、1912年1月10日、伊犁革命臨時政府の成立が宣言された。広福が臨時政府都督就任、楊?緒が総司令部長、賀家棟が参謀部長、李輔黄が前敵総指揮に就任。3月、袁大化が新疆都督に就任するも1か月で辞任、後任の袁鴻祐も就任直前に暗殺され、代わって就任した楊増新による新疆統治が16年続くことになる。
中華民国の成立中華民国臨時政府の一次内閣閣議

11月1日、清朝政府は袁世凱を内閣総理に任命、海外華僑や留学生及び国内世論の間に袁世凱による初代大総統の気運が高まった。11月9日黄興は袁世凱に書簡を送りナポレオンワシントンの資格を持ってナポレオン、ワシントンの功績を作るべしとし、袁世凱に民主的に選出された総統となることを求めた。11月16日、パリ滞在中の孫文も国民軍政府に対し袁世凱の総統就任に同意の意向を示す電報を送信している。

1911年11月、黎元洪を首班とする武昌団体と上海都督陳其美、江蘇都督程徳全が代表する上海団体が同時に中央政府準備活動を展開した。11月9日、黎元洪は湖北軍政府都督の名義により独立した各省に代表を武昌に派遣し中央政府組織のための会議開催を呼びかける電報を、11月11日には上海都督陳其美、江蘇都督程徳全等の三省軍政府都督は各省代表に上海での同様の会議開催を呼びかける電報を発信している。11月15日、各省都督府代表聯合会が上海で開催され上海、江蘇、浙江、福建の省代表が参加、武昌団体は会議は武昌での開催を主張した。武昌で最初に発生した革命であったため多くの省代表は武漢に到着し、同盟会の主要指導者である黄興、宋教仁等も武漢に入っていた。結局上海団体の譲歩により、各省代表が武漢に集結することになり、30日に漢口で臨時中央政府組織及び『中華民国臨時政府組織大綱』制定のための会議開催が決定し、それと同時に上海にも各省1名の代表を駐在させ連絡機関を設置することが決定した。

11月21日、各省代表は次々に武昌に到着した。このときの漢陽は清軍の攻撃を受け陥落の危機にあったが、各省代表は30日にイギリス租界の順昌洋行で第1回会議を開催、14省の代表24名が参加し、譚人鳳が議長に選出された。


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