辛亥革命
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その間に中国14省が次々と清朝からの独立を宣言し、内地十八省中で清朝の統治が及ぶのは甘粛河南[6]山東(途中で独立取消)、直隷のみとなり、独立した各省では一部が革命党の主導を受けたほか、大部分は諮議局(中国語版)メンバーによって政治運営が行われた。一方、清朝は直隷、河南、山東、甘粛と清朝の本拠地満洲の東三省(奉天、吉林、黒竜江)を掌握していたほか、内モンゴル王公たちも清朝支持を表明しており、北方では依然として勢力を保っていた。

10月22日、湖南共進会の焦達峰、陳作新は会党及び新軍で組織した部隊を率いて長沙で武装蜂起を決行、湖南巡撫余格誠を敗走させ、巡防営統領黄忠浩を斬首している。決起軍は中華民国湖南軍政府の成立を宣言、焦達峰を都督、陳作新を副都督とし『討満清檄文』を発表している。

10月22日同日、陝西同盟会の井勿幕、銭鼎、景定成は陝西袍哥会と連絡して会党と新軍の革命メンバーが協力し、同時に武装蜂起、2日間の戦闘の後に西安を制圧、護理巡撫銭能訓は逃亡、西安将軍文瑞は自殺し、決起軍により秦隴復漢軍政府の成立が宣言され、日知会の旧会員であり新軍隊官の張鳳?が都督に選出された。

10月23日、江西同盟会の林森、?群、蔡等は九江の新軍での武装蜂起を実行、独立宣言を行った。翌日には九江軍政分府が成立し、第二十七混成協第五十三標標統の馬毓宝が九江軍政分府都督に選出された。

10月29日、山西同盟会会員、新軍標統の閻錫山は姚以階、黄国梁、温寿泉、趙戴文南桂馨、喬熙等の人と協力し、新軍により太原起義を発動、山西巡撫陸鍾gを殺害して山西軍政府の成立を宣言、閻錫山を都督に選出した。しかし12月12日に曹?による反撃により太原から撤退している。

10月29日同日、直隷では?州兵諫が発生した。新軍第二十鎮統制張紹曽と第三十九協協統伍祥禎、四十協協統潘矩楹、第二混成協協統藍天蔚、第三鎮第五協協統盧永祥等が協力し、直隷?州より清朝政府に対し最後通牒要求12条を提出し、年内の国会開設と憲法草案の起草、責任内閣制の採用と皇族の国務大臣就任の制限を求めている。

10月30日、雲南同盟会の李根源は新軍標統蔡鍔羅佩金及び唐継尭等と協力し新軍による重九起義を発動、翌日には昆明を占拠して雲南軍政府が成立、雲貴総督李経羲を送還し、蔡鍔を都督に選出した。

10月31日、南昌同盟会の蔡公時は新軍による武装蜂起を実行、江西軍政府が成立し李烈鈞を都督に選出した。

11月3日(旧暦九月十三日)、上海同盟会、光復会、上海商団の陳其美、張承?、李平書、李英石、李燮和等は上海で武装蜂起を決行、張承?、劉福標等が組織した青幇洪幇による決死隊、李平書と李英石による上海商団の武装集団、李燮和と連絡を取った呉淞地区で蜂起した軍・警察蜂起部隊の朱家?、徐霽生等により組織された中国敬死団がその中心となった。4日には江南制造局を占拠、上海光復が実現している。8日に中華民国軍政府滬軍都督府が成立、陳其美を都督に選出した。

11月4日(旧暦九月十四日)、貴州革命党の張百麟を中心として新軍及び陸軍学堂学生により武装蜂起が実行され貴陽を占拠、大漢貴州軍政府が成立し、貴州新軍第一標教官兼講武堂堂長、陸軍小学堂総弁の楊?誠を都督、趙徳全を副都督に選出した。

同日深夜より未明にかけ、杭州に駐在する新軍第二十一鎮(中国語版)第八十一標標統代理朱瑞(浙江光復会会員)、隷下部隊の軍官呂公望(同盟会会員)、同盟会会員の新軍第八十二標周承?および隷下部隊の軍官呉思豫?百里、?百器、楊廷棟、呉肇基、光復会の王文慶(中国語版)は上海より漁民120名からなる決死隊(長:?介石、同盟会)を率いて武装蜂起を決行、杭州を攻撃した。陸軍警察(憲兵)執事官の童保暄(浙江光復会会員)は城站に臨時総司令部を設置、童保暄が臨時総司令官、葛政恩、黄雲秀が参謀となった[7]。朱瑞に指揮された第八十一標第一、二営は旗営を包囲、第三営(兪?)及び決死隊第4隊(長:王金発(中国語版)、光復会)は保国寺軍機局と附属陸軍小学を、砲兵営は隍山を占領。葛敬恩の指揮する騎兵連は総司令部の掩護を担当した。顧乃斌率いる第八十二標第三営[8] と決死隊主力(張伯岐率いる第1、2隊、董夢蛟率いる第3隊)、尹鋭志(光復会、女性)等は撫台衙門を、第5隊は旗城門下(中国語版)を占拠[9]、楊廷棟が兵を率いて巡撫府を包囲、巡撫増?を捕虜とした。翌5日午後に代表署理として杭州将軍コ済が軍政府に投降し、革命勢力は杭州を支配、浙江革命軍を名乗り、周承?が総司令に就任、都督には童保暄を立てる予定であったが、最終的に立憲派であった浙江諮議局議長の湯寿潜を都督に選出した。

11月5日、江蘇省の立憲派及び紳商は江蘇巡撫程徳全に対し蘇州の独立宣言を要求、江蘇革命軍政府が成立し程コ全が都督に就任した。

同日、安徽同盟会の呉暘谷等は標炮営を指揮し武装蜂起、省城安慶を攻撃した。立憲派勢力は安徽巡撫朱家宝に対し独立を勧告、11月8日に安徽諮議局は独立を宣言、朱家宝を都督に、王天培を副都督に選出した。

11月6日、広西諮議局在は省城の桂林で清朝からの離脱独立を決定、広西の独立を宣言した。当初は清朝巡撫沈秉?が都督とされたが、数日後に清軍提督陸栄廷が政変により都督に就任している。

11月9日、福建同盟会の鄭祖蔭、彭寿松、許崇智、陸軍第十鎮統制の孫道仁等により福州で武装蜂起した。清朝総督松寿は自殺し、11月11日に福建での光復が宣言されて福建軍政府が成立、孫道仁を都督に選出した。

10月末、広東同盟会会員の陳炯明ケ鏗及び彭瑞海等は広東化州、南海、順徳、三水などで民間軍による武装蜂起を決行、11月8日には胡漢民の勧告の下、広東水師提督李准及び陸軍第二十五鎮統制竜済光らにより両広総督張鳴岐に各方面の代表を召集させ広東の独立問題を協議、翌日広東独立が決定された。11月9日、陳炯明は徽州を占拠、同日広東の独立が宣言されて軍政府が成立、胡漢民を都督に、陳炯明を副都督に選出した。

11月12日、山東煙台同盟会の欒鍾堯、宮錫徳等の「十八豪傑」と称される同盟会会員により武装蜂起が決行され、煙台海防営を占拠した。煙台道台徐世光(中国語版)は武装蜂起を知ると家族を連れ海関税務司のイギリス人マイヤー公館に保護を求め青島に逃亡、煙台の独立が宣言されて山東軍政府が成立、陳其美が都督に選出された。11月13日、山東革命党の丁惟汾の勧告と陸軍第五鎮統制賈賓卿等中下級軍官らの強い圧力の下、山東巡撫孫宝gは山東の独立を承認、孫宝gを都督に選出しているが、11月24日に孫宝gは独立を取り消すなどの混乱が続いた。

11月17日、寧夏同盟会支会は寧夏会党による武装蜂起を決行、23日に銀川で支那寧夏革命軍政府が成立した。

11月22日重慶では大漢蜀北軍政府が成立、27日は四川鄂軍により督弁鉄道大臣の端方を殺害している。

11月22日、成都四川官紳代表大会は四川独立を宣言、大漢四川軍政府が成立、立憲党の蒲殿俊を都督に選出した。26日、四川総督趙爾豊は独立文書を発表、政治権力を軍政府に移管した。革命軍に投降する清軍

11月8日、同盟会会員の指導により陸軍第九鎮統制徐紹南京城外60里の秣陵関で武装蜂起を宣言した。徐紹驍ニ上海都督・陳其美及び江浙聯軍の協議により連合軍を組織して南京を攻略することを決定、徐紹驍江浙聯軍総司令に任命、11月11日に江浙聯軍司令部が鎮江に成立した。11月24日から12月1日(旧暦9月11日)、徐紹驍フ指揮の下、後に黄興も指揮に参加し連合軍は烏龍山、幕府山、紫金山、雨花台、天保城等の拠点を占拠した。両江総督張人駿(中国語版)と江寧将軍(中国語版)鉄良は同日夜に日本軍艦に逃亡し上海へ亡命。12月2日に南京城を攻略、これにより長江以南の地域はすべて革命軍の支配下に置かれることになった。3日、宋教仁の提案で都督府は蘇州から南京へ移転[10]

12月2日、駐漢口イギリス領事の斡旋により武漢革命軍と清軍の間で停戦協定が成立した。

1911年12月28日、迪化にて新疆督練公所教練官の劉先俊らが挙兵するも、新疆巡撫袁大化によって鎮圧され、劉ら主要メンバーは処刑される[11]。1912年1月7日午後12時ごろ、伊犁混成協統領楊?緒(中国語版)(イリ革命党)、同執事官李輔黄(中国語版)、書記官馮特民(中国語版)、ケ宝珊(中国語版)(同盟会)、哥老会回族首領馬得元らが霍城県の恵遠城(中国語版)将軍署および南北の軍械庫を襲撃した。袁大化は新疆提法使楊増新にこれを鎮圧させようとしたが、楊は迪化に駐屯したまま動こうとしなかった。軍械庫では激しい応戦が行われ戦線が膠着したため、前伊犁将軍の広福により停戦交渉が行われた。伊犁将軍志鋭(中国語版)は処刑され、1912年1月10日、伊犁革命臨時政府の成立が宣言された。広福が臨時政府都督就任、楊?緒が総司令部長、賀家棟が参謀部長、李輔黄が前敵総指揮に就任。3月、袁大化が新疆都督に就任するも1か月で辞任、後任の袁鴻祐も就任直前に暗殺され、代わって就任した楊増新による新疆統治が16年続くことになる。
中華民国の成立中華民国臨時政府の一次内閣閣議

11月1日、清朝政府は袁世凱を内閣総理に任命、海外華僑や留学生及び国内世論の間に袁世凱による初代大総統の気運が高まった。11月9日黄興は袁世凱に書簡を送りナポレオンワシントンの資格を持ってナポレオン、ワシントンの功績を作るべしとし、袁世凱に民主的に選出された総統となることを求めた。


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