辛亥革命
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国有化政策はの民衆の反発を招き[1]、四川省が中心となり保路運動[5]が展開された。

6月17日、四川民間各団体により“四川保路同志会”が結成され、四川諮議局議長の蒲殿俊が会長に、副議長の羅綸が副会長に選出され、各種宣伝活動や北京への請願運動が実施された。8月5日成都で川漢線鉄道会社の臨時株主総会が開催、8月24日には市民によりゼネストが実施、9月1日には川漢鉄道会社の株主総会の指導のもとに「抗糧抗捐活動」が実施された。9月7日、四川都督の趙爾豊は保路同志会の指導者を拘束、鉄道会社と同志会を押さえ込みを行った。この措置に激昂した民衆は総督衙門で請願行動を起こすと、趙爾豊は清兵に発砲を命令、請願行動中の市民30名が射殺される成都血案が発生した。9月8日、成都近郊の農民は同盟会及び会党組織である哥老會の指導の下に保路同志軍を組織して武装蜂起、省城を包囲し、清兵との交戦が行われると、付近の住民も参加し、数日の内に20数万の規模となった。9月25日、同盟会会員の呉玉章、王天傑等は栄県の独立を指導している。清朝は民衆による武装蜂起と成都包囲を知ると端方に湖北新軍の一部を指揮させて四川での革命運動の鎮圧を命じた。?翊武(左)と孫武(右)

湖北新軍は張之洞による訓練された“鄂軍”であり、中級軍官以下多くの人材が官費で日本に留学していた影響もあり、革命党の影響力、特に共進会及び文学社の影響を強く受けていた。保路運動が民衆蜂起に変化した後、命令を受けた端方は湖北新軍を率いて四川鎮圧に向かったが、それにより武漢の清朝勢力が弱まったことを好機と捉えた革命党人士は革命蜂起の絶好の機会と捉えた。

1911年9月24日、文学社と共進会は武昌で双方の責任者と新軍代表60余名で会議を開催、武装蜂起の統一指揮部(起義総指揮部)を組織、文学社の?翊武が総指揮に、共進会の孫武が参謀長に、同じく共進会の劉公が政治準備局総理に選出された。起義総指揮部は武昌小朝街85号文学社機関に、準備局は漢口ロシア租界宝善里14号に設置され、1911年10月6日(旧暦8月15日)に武装蜂起が確認されたが、準備不足により10月16日に延期された。

10月9日、孫武はロシア租界で爆弾を製造している際に爆発事故が発生、孫武が負傷、ロシア当局の調査を逃れるために逃亡したが、武装蜂起の文書や旗などが押収され、秘密工場の隣に居住していた劉公自宅より劉公の弟である劉同が連行された。湖広総督瑞澂がこの事件の発生を知るや全市に警戒命令を発し、革命党関係者の逮捕に当った。文学社の?翊武は清朝当局の動きを知り、予定を早めて武装蜂起を決定、各方面に文書を送付した。9日夜、彭楚藩劉復基が起義総指揮部で逮捕、楊宏勝が弾薬輸送中に逮捕され、10月10日深夜に3名は斬首されている。武昌起義での革命軍砲兵

新軍工程営後隊正目(班長に相当)の熊秉坤等は予定を早めて蜂起することを決定、隊官の呉兆麟を決起軍臨時総指揮、熊秉坤を参謀長とすることを決定した。1911年10月10日20時(この時間は正確な考証を経たものではない)、程正瀛による武昌起義は発動され、決起兵士は軍の武器庫を襲撃、深夜になると文学社及び共進会の影響を受けた大部分の兵士が呼応した。呉兆麟、熊秉坤は決起部隊を指揮して総督府を攻撃、南湖砲隊の砲撃の下、夜明け前には総督衙門を占拠、湖広総督・瑞澂は逃亡した。

10月11日未明、決起軍は湖北省諮議局大楼會議室に集結し、新軍八鎮十五協二十九標二営司務長の蔡済民により会議が招集され、軍政府の組織と都督人選が議論された。革命党の呉醒漢、徐達明等10数名以外、湖北諮議局議長湯化竜、副議長張国溶及び議員、旧軍官呉兆麟が参加した。会議は湯化竜が議長となり進行し、呉兆麟により第21混成協統領黎元洪を都督とすることが提案され、立憲派により承認された。この時革命党勢力は黄興宋教仁は武昌におらず、彭楚藩劉復基楊宏勝は被害を受け、孫武は爆発事故で負傷、?翊武は逃亡中であったことより他の有力な提案が行われず、黎元洪を都督、湯化竜を民政総長(一説には総参謀とも)に選出することが決定した。10月11日、中華民国湖北軍政府成立

11日午前、武昌全域が決起軍の支配下に置かれ、夜には謀略処が設置された。謀略処により中華民国軍政府鄂軍都督府(中華民国湖北軍政府)の成立が宣言され、同時に軍政府の檄文と『安民布告』が発表され、国号を中華民国と改め、清朝の年号である宣統を廃止して黄帝紀元の採用を発表、宣統3年を黄帝紀元4609年とした。軍政府は参謀部、軍務部、政事部、外交部を設置、諮議局大楼を事務所とし十八星旗を軍旗とした。謀略処は軍政府名義により『布告全国電』や『通告各省文』などの電信を全国に発信している。

10月12日、革命党人である第二十一混成協第四十二標士兵胡玉珍、邱文彬、趙承武等は漢陽で武装蜂起を決行、支配下に置くと、趙承武は漢口を攻略、ここに武漢三鎮は革命勢力下に置かれることとなった。
武昌起義後の発展
各省の呼応

武昌起義の成功後、清は北洋軍を派遣し武漢三鎮江北漢口及び漢陽を攻撃、以前罷免されていた北洋軍の袁世凱が再び召還され北洋軍内部の人心動揺を抑えた。革命軍は陽夏防衛戦を展開したが北洋軍に敗北、11月27日には江南武昌に撤退している。47日間の作戦の中で1万人強の死傷者を出したが、武昌防衛を堅持していた。その間に中国14省が次々と清朝からの独立を宣言し、内地十八省中で清朝の統治が及ぶのは甘粛河南[6]山東(途中で独立取消)、直隷のみとなり、独立した各省では一部が革命党の主導を受けたほか、大部分は諮議局(中国語版)メンバーによって政治運営が行われた。一方、清朝は直隷、河南、山東、甘粛と清朝の本拠地満洲の東三省(奉天、吉林、黒竜江)を掌握していたほか、内モンゴル王公たちも清朝支持を表明しており、北方では依然として勢力を保っていた。

10月22日、湖南共進会の焦達峰、陳作新は会党及び新軍で組織した部隊を率いて長沙で武装蜂起を決行、湖南巡撫余格誠を敗走させ、巡防営統領黄忠浩を斬首している。決起軍は中華民国湖南軍政府の成立を宣言、焦達峰を都督、陳作新を副都督とし『討満清檄文』を発表している。

10月22日同日、陝西同盟会の井勿幕、銭鼎、景定成は陝西袍哥会と連絡して会党と新軍の革命メンバーが協力し、同時に武装蜂起、2日間の戦闘の後に西安を制圧、護理巡撫銭能訓は逃亡、西安将軍文瑞は自殺し、決起軍により秦隴復漢軍政府の成立が宣言され、日知会の旧会員であり新軍隊官の張鳳?が都督に選出された。


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