辛亥革命
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臨時政府組織大綱第1条で「臨時総統は各省都督代表がこれを選挙し、投票総数の3分の2以上の獲得で当選とされ、投票権は各省1票」と規定されていた[12]。選挙に参加したのは直隷、奉天、山東、山西、河南、陝西、湖北、湖南、江西、安徽、江蘇、浙江、福建、広東、広西、雲南、四川の17省45名の代表であり、孫文は17票中16票を獲得し、中華民国初代臨時大総統に選出された。臨時参議院成立時の集合写真影

1912年1月1日、孫文は南京にて中華民国の成立を宣言するとともに、初代臨時大総統就任のための宣誓を行った。『臨時大総統職宣誓書』の中で国民主権の国家であり、漢満蒙回蔵諸民族による国家体制を強調している。1月2日、孫文は各省に陰暦の廃止と太陽暦の採用及び民国紀元の採用を通達し、1912年を中華民国元年とした。

1月3日、各省代表は黎元洪を臨時副総統に選出し、同時に孫文が提出した臨時政府各部総長、次長名簿を承認、ここに正式に中華民国臨時政府が成立した。

臨時政府は下部に10部を設け、陸軍部総長黄興(参謀本部総長兼任)、海軍部総長黄鍾瑛、外交部総長王寵恵、司法部総長伍廷芳、財政部総長陳錦濤、内務部総長程徳全、教育部総長蔡元培、実業部総長張謇、交通部総長湯寿潜が就任している。この他の人事としては総統府秘書長に胡漢民、法制局長に宋教仁、印鋳局長に黄復生が任命された。

1月11日、各省代表会議は南京を臨時首都とし、五色旗中華民国の国旗と定め五族共和の象徴とした。1月28日、各省代表会議により臨時参議院が設置され、各省代表は参議院議員となり、林森と陳陶遺がそれぞれ正副議長に就任した。
清朝の反応と革命政府との講和内閣総理大臣時の袁世凱

武昌蜂起の後、中国に権益を有す列強諸国は静観の立場を採り、清朝政府または革命政府の中での自己の権益に有利な政権を観察していた。

1911年10月14日、清は彰徳で病気療養中であった袁世凱を湖広総督としたが、袁世凱が病を理由に就任を固辞した。10月22日の湖南独立、10月23日の江西独立を受け、10月27日に袁世凱を欽差大臣に任命し北洋軍を率いて武漢進攻に着手した。10月29日に山西独立、同日に新軍第二十鎮による?州兵諫の発生を受け、11月1日に清朝は袁世凱を内閣総理大臣に任命した。しかし11月2日に漢口攻撃した後は清軍の軍事行動を停止し、水面下で革命政府との講和協議が行われ、11月3日には清朝により『憲法重大信条十九条』が発表された。

11月13日、袁世凱が北京に到着して内閣総理大臣に就任、16日には責任内閣を組閣し、清朝の行政権が移譲されるとともに、各国の政府承認を受けている。

11月26日、袁世凱はイギリス駐漢口総領事ハーバード・ゴッフ(Herbert Goffe)を通して、民国軍政府及び各省代表に停戦、宣統帝の退位、袁世凱の総統就任の講和三条件を提示した。12月1日に双方は『武漢地区停戦協定』を締結、武漢地区は12月3日午前8時から12月6日午前8時までの3日間の停戦が実現し、停戦後は休戦交渉が行われた。

12月8日、袁世凱は唐紹儀を内閣総理大臣の全権代表として派遣、12月9日には唐紹儀は武漢に赴き黎元洪やその代表との会談を行い、同日各省代表は伍廷芳を停戦交渉の全権代表に選出した。

列強諸国の介入もあり、清朝政府代表の唐紹儀と各省代表の伍廷芳は上海イギリス租界で交渉を開始、その結果、袁世凱は宣統帝の退位を支持することを条件に、各省代表は袁世凱の中華民国大総統への就任を支持した。成立したばかりの共和国から内戦や外国軍隊の介入を未然に防止する観点からも、孫文もまた中国の統一と袁世凱を首班とする共和政府の樹立に同意している。

1912年1月1日、中華民国臨時政府が正式に成立、孫文が臨時大総統に就任した。1月2日、孫文の大総統就任を知ると、袁世凱は唐紹儀の交渉代表資格を停止している。

1月16日、袁世凱は朝廷からの帰路、東華門丁字街で同盟会京津分会組織の爆弾による暗殺計画に遭遇している。この暗殺は失敗したが、17日に袁世凱は革命勢力に対し暗殺活動の停止を要求している。

1月20日、民国臨時政府は袁世凱に対し、皇帝の退位と優待条件を提示、1月22日に孫文は袁世凱が宣統帝の退位に賛成するのであれば自らは大総統職を辞任し、袁世凱の就任を要請する声明を発表した。地位が保証された袁世凱は清朝に対する圧力を強め、慶親王奕?と那桐への政治工作、隆裕太后の寵愛を受けた太監である張蘭徳に賄賂工作を行い、「時局の大勢は既に決し、もし革命軍が北京に到達すれば皇帝の生命の確保もおぼつかないが、退位することで優待条件を受けることができる」と退位を勧めた。

1月29日、清朝は朝議により宣統帝の退位を決定、2月3日には隆裕太后は袁世凱に全権を委任し、民国臨時政府との皇帝退位条件の交渉に当らせた。退位詔書

2月6日、臨時参議院は皇帝退位のための『優待条例』と張謇が起草した『退位詔書』を承認した。承認された優待条件は下記の通りである。
大清皇帝尊号は今後も使用可能であり、民国政府により外国君主と同等の待遇を受ける。

民国政府は毎年400万元を皇帝に支出する。

皇帝は暫時紫禁城に居住し、後に頤和園に移る。

清室の宗廟は民国政府により保護を受ける。

光緒帝王の崇陵建設費用は民国政府が支出する。

宮廷内の雇人は継続して雇用される。

皇室の私有財産は民国国軍により保護される。

禁軍は民国陸軍に編入する。

皇帝退位に伴う優待条件以外に清皇室及び満蒙回蔵各王族の待遇条件7条も同時に定められた。

日本の西園寺内閣は清と革命軍の妥協政策をイギリスに提案したが、イギリスは袁世凱と提携し、共和制中華民国を成立させた[13]。日本陸軍は辛亥革命を進出の機会ととらえ、1912年1月、居留民保護のため漢口に日本陸軍中清派遣隊 (後に中支那派遣隊)を漢口に派遣し、1922年7月まで駐屯させた[14]。歩兵四個中隊、7000人規模で北京天津の支那駐屯軍よりも大きいものであった[14]。この時ロシア、イギリスも派兵した[14]

1912年2月には第一次満蒙独立運動を開始するが[1][15]、イギリスに主導権をとられたことで失敗に終わった[13]。日本陸軍は日英同盟への不信をつのらせ、他方、外務省と日本海軍は日英同盟を重視し、対立した[13]
宣統帝退位

2月12日、清朝内閣総理大臣袁世凱等の内閣勧告により宣統帝の母后である隆裕太后は清皇室への優待条件を受け入れ、『宣統帝退位詔書』を発布、宣統帝の退位と袁世凱の中華民国臨時政府への権限移譲が行われた。この時に、有期限の元号は廃止され、1912年を元年とする無期限の民国紀元が施行された

『退位詔書』は張謇により起草、臨時参議院を通過したものである。しかし袁世凱により全権組織された共和政府という表現は袁世凱により追加されたものである。これにより清朝は滅亡し、2000年以上続いた中国における帝政は終に廃止された。
袁世凱の臨時大総統就任袁世凱は北京で第2代臨時大総統に就任した

宣統帝退位後の1912年2月13日、孫文は辞表を提出し、臨時参議院に対し袁世凱の大総統就任を推薦した。2月15日、臨時参議院は袁世凱の第2代臨時大総統就任と南京を首都とすることを承認、3月8日には『中華民国臨時約法』を制定した。

3月10日、袁世凱は北京で中華民国第2代臨時大総統に就任、この直後より諸外国からの政府承認が中華民国に行われた。袁世凱は北京兵変を理由に北京に遷都している。

袁世凱は就任後強力な中央政府の保持に努め、一部革命者による各省の分離独立の動きを阻止している。同時に袁世凱は積極的に列強との間にモンゴル及びチベットに対する主権承認交渉を行っている。

これより1928年までの期間を「北洋時期」と称し、当該期間内の中華民国政府は「北京政府(北洋政府)」と称される。

1913年2月、『臨時約法』の規定に従い、中国史上初めての国会選挙である中華民国第1回国会議員選挙が実施された。選挙の結果は国民党が第一党の地位を占め、宋教仁を総理大臣とする内閣組閣準備が進められた。しかし3月20日、宋教仁が上海で暗殺された。この暗殺の背景には袁世凱の指示があったことから[16]、7月には孫文により第二次革命が計画され、袁世凱に対する武装蜂起が実行されたが、程なく鎮圧されている。第二次革命を阻止した袁世凱は自ら皇帝を自称しようとしたが、支持を得られずに失敗し、間もなく病死した(中華帝国)。

袁世凱の死後、中国は軍閥割拠となり、孫文は広州で護法政府を組織し(第三次革命)、中国の政治情勢は分断と動乱の時代に突入した。
チベット・モンゴル・満洲・東トルキスタンなど詳細は「チベット・モンゴル相互承認条約」、「満洲国」、「東トルキスタン共和国」、および「1911年のモンゴル革命」を参照


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