辛亥革命
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3日、宋教仁の提案で都督府は蘇州から南京へ移転[10]

12月2日、駐漢口イギリス領事の斡旋により武漢革命軍と清軍の間で停戦協定が成立した。

1911年12月28日、迪化にて新疆督練公所教練官の劉先俊らが挙兵するも、新疆巡撫袁大化によって鎮圧され、劉ら主要メンバーは処刑される[11]。1912年1月7日午後12時ごろ、伊犁混成協統領楊?緒(中国語版)(イリ革命党)、同執事官李輔黄(中国語版)、書記官馮特民(中国語版)、ケ宝珊(中国語版)(同盟会)、哥老会回族首領馬得元らが霍城県の恵遠城(中国語版)将軍署および南北の軍械庫を襲撃した。袁大化は新疆提法使楊増新にこれを鎮圧させようとしたが、楊は迪化に駐屯したまま動こうとしなかった。軍械庫では激しい応戦が行われ戦線が膠着したため、前伊犁将軍の広福により停戦交渉が行われた。伊犁将軍志鋭(中国語版)は処刑され、1912年1月10日、伊犁革命臨時政府の成立が宣言された。広福が臨時政府都督就任、楊?緒が総司令部長、賀家棟が参謀部長、李輔黄が前敵総指揮に就任。3月、袁大化が新疆都督に就任するも1か月で辞任、後任の袁鴻祐も就任直前に暗殺され、代わって就任した楊増新による新疆統治が16年続くことになる。
中華民国の成立中華民国臨時政府の一次内閣閣議

11月1日、清朝政府は袁世凱を内閣総理に任命、海外華僑や留学生及び国内世論の間に袁世凱による初代大総統の気運が高まった。11月9日黄興は袁世凱に書簡を送りナポレオンワシントンの資格を持ってナポレオン、ワシントンの功績を作るべしとし、袁世凱に民主的に選出された総統となることを求めた。11月16日、パリ滞在中の孫文も国民軍政府に対し袁世凱の総統就任に同意の意向を示す電報を送信している。

1911年11月、黎元洪を首班とする武昌団体と上海都督陳其美、江蘇都督程徳全が代表する上海団体が同時に中央政府準備活動を展開した。11月9日、黎元洪は湖北軍政府都督の名義により独立した各省に代表を武昌に派遣し中央政府組織のための会議開催を呼びかける電報を、11月11日には上海都督陳其美、江蘇都督程徳全等の三省軍政府都督は各省代表に上海での同様の会議開催を呼びかける電報を発信している。11月15日、各省都督府代表聯合会が上海で開催され上海、江蘇、浙江、福建の省代表が参加、武昌団体は会議は武昌での開催を主張した。武昌で最初に発生した革命であったため多くの省代表は武漢に到着し、同盟会の主要指導者である黄興、宋教仁等も武漢に入っていた。結局上海団体の譲歩により、各省代表が武漢に集結することになり、30日に漢口で臨時中央政府組織及び『中華民国臨時政府組織大綱』制定のための会議開催が決定し、それと同時に上海にも各省1名の代表を駐在させ連絡機関を設置することが決定した。

11月21日、各省代表は次々に武昌に到着した。このときの漢陽は清軍の攻撃を受け陥落の危機にあったが、各省代表は30日にイギリス租界の順昌洋行で第1回会議を開催、14省の代表24名が参加し、譚人鳳が議長に選出された。会議では臨時政府成立以前は湖北軍政府が中央軍政府の職権を代行し、湖北軍都督が中央軍政府大都督を代行することが決定された。12月2日、臨時政府組織大綱の制定が決定、雷奮、馬君武王正廷が組織大綱起草者に選出されると同時に、袁世凱の意向によっては臨時大総統に推挙することが確認された。12月3日、会議は3章21条で構成される『中華民国臨時政府組織大綱』を採択、即日全省代表の署名の下に公布され、南京を臨時政府の所在地とする、総統制による共和体制の方針が確認された。各省代表は7日以内に南京に集結、10省以上の代表が集結した場合は臨時大総統選挙を実施することも定められた。初代臨時大総統に就任した孫文

12月4日、宋教仁、陳其美等は上海における各省代表の沈恩孚、兪寰澄、朱葆康、林長民馬良、王照、欧陽振声、居正、陶鳳集、呉景濂、劉興甲、趙学臣、朱福?、さらに章炳麟、趙鳳昌、章駕時、蔡元培王一亭、黄中央、顧忠?、彭錫範などを召集し、上海江蘇省教育総会にて会議を開催、投票方式により孫文への帰国要請と政治参加を求める公電発信を決定、黄興を暫定大元帥、黎元洪を副元帥とし、大元帥による中華民国臨時政府の方針を求めた。しかし黄興は大元帥就任要請を強く固辞したため、17日には黎元洪を大元帥、黄興を副元帥とすることが決定した。議論が国旗問題に及んだ際には湖北代表は鉄星十八星旗を、福建代表は青天白日旗、江浙代表は五色旗を国旗と主張を行い対立したが、最終的には五族共和を代表する五色旗を国旗とし、鉄星十八星旗を陸軍旗、青天白日旗を海軍旗とする折衷案が採用された。

12月11日、上海と漢口両地方の17省代表が南京に入り、中央政府設置に向けた会議が続けられた。12月14日、各省代表は『臨時政府組織大綱』に基づき総統選挙を行う事を決定、黎元洪及び黄興の両派に分かれていた。12月15日、代表は袁世凱の共和制賛成の方針を獲得したため総統選挙は延期され、袁世凱への政治的期待が高まった。

12月25日フランスマルセイユより孫文が上海に帰国した。孫文は多くの革命団体より支持を受ける人物であり、大総統就任が期待される人物であったため、立憲派及び旧勢力より孫文は袁世凱から大総統の座を奪い取るものであると認識されていた。

12月28日、南京で臨時大総統選挙予備会議が開催され、29日に臨時大総統選挙が実施された。

臨時政府組織大綱第1条で「臨時総統は各省都督代表がこれを選挙し、投票総数の3分の2以上の獲得で当選とされ、投票権は各省1票」と規定されていた[12]。選挙に参加したのは直隷、奉天、山東、山西、河南、陝西、湖北、湖南、江西、安徽、江蘇、浙江、福建、広東、広西、雲南、四川の17省45名の代表であり、孫文は17票中16票を獲得し、中華民国初代臨時大総統に選出された。臨時参議院成立時の集合写真影

1912年1月1日、孫文は南京にて中華民国の成立を宣言するとともに、初代臨時大総統就任のための宣誓を行った。『臨時大総統職宣誓書』の中で国民主権の国家であり、漢満蒙回蔵諸民族による国家体制を強調している。1月2日、孫文は各省に陰暦の廃止と太陽暦の採用及び民国紀元の採用を通達し、1912年を中華民国元年とした。

1月3日、各省代表は黎元洪を臨時副総統に選出し、同時に孫文が提出した臨時政府各部総長、次長名簿を承認、ここに正式に中華民国臨時政府が成立した。

臨時政府は下部に10部を設け、陸軍部総長黄興(参謀本部総長兼任)、海軍部総長黄鍾瑛、外交部総長王寵恵、司法部総長伍廷芳、財政部総長陳錦濤、内務部総長程徳全、教育部総長蔡元培、実業部総長張謇、交通部総長湯寿潜が就任している。


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