辛亥革命
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1906年(光緒31年)9月1日には憲政移行の方針を定めた『欽定憲法大綱』を発表し、1910年宣統2年)には中国初の議会として、中央に資政院(中国語版)が、新疆省を除く各省には諮議局(中国語版)がそれぞれ発足。1911年(宣統3年)5月には内閣が設置されたが、内閣成員の半数が満洲人、内皇族が5名を占める皇族内閣であり、憲政移行を求める知識人の間に失望が広がった。
新軍編成訓練を受ける北洋新軍

清末期には、八旗及び漢人緑営を主体とする清中央軍は実質的な戦力を喪失していた。太平天国鎮圧に際しては各地方の兵力に依拠し、日清戦争では旧式軍隊の落伍が顕在化した。清は軍事維持を目的に1901年(光緒27年)に陸軍の全面改革を実施、全国に新式陸軍36鎮を設置し、その内6鎮を朝廷直属とし他は各地方巡撫・総督の管轄とした。新式軍隊の幹部を養成するために各地に軍学堂が設置され、一部地域では留学生を軍官に積極的に採用するようになった。
反清思潮

清を構成する満洲人への反発は存在していたが、清中期には表面化することはほとんどなくなった。しかし、清末の政治的閉塞感から漢人の間に反満意識が形成されるようになった。太平天国では満洲人排除が政治主張に含まれ、1890年代になると明末の著作に刺激を受けて満洲人排除の潮流が発生してきた。清朝打倒を目指す革命運動家は反清復明思想を利用し、鄒容による『革命軍』などの著作が生まれ、知識人の間に広がった。孫文などの革命勢力は、満洲人満洲に追い出して漢人の明王朝が支配していた黄河・長江流域とその周辺地域に漢人の国家建設を目指そうとした[4]。しかし、辛亥革命後は革命スローガンの「打倒韃虜」に因り警戒を引き起こした満族、モンゴル族、回族、チベット族を取り込むために漢族と合わせた「五族共和」を唱え始めた[4]
革命組織

辛亥革命は興中会(華南地区)、華興会湖南地区)、光復会地区)及び後に成立した中国同盟会により実行された。この他共進会(長江流域)、文学社、同盟会中の丈夫団なども革命に関与している。中国同盟会は全国革命組織が緩やかに団結した連合体であり、同盟会会員は各地に様々な外郭組織を構築していた。

革命の代表的指導者には孫文黄興宋教仁蔡元培趙声章炳麟陶成章などが挙げられる。
政治主張

革命における主要な政治主張には清打倒と共和制政体の確立がある。1894年11月24日に成立した興中会は「満洲駆逐、中華回復、衆議政治の確立」を活動骨子に定めている。また1904年2月15日に成立した華興会でも「満洲駆逐、中華回復」を政治主張とし、1905年8月20日に成立した中国同盟会でも「満洲駆逐、中華回復、民国建国、地権平等」を綱領に定め、民族主義、民権主義、民生主義が唱えられた。革命団体が一線で活動を行う際には清朝打倒と中華回復を強調し、民衆の中に反満感情を扇動して、清打倒に主眼を置いた。清崩壊後にどのような政治制度が採用され、どのような社会改革が行われるかについては、当時の活動家は清崩壊後に改めて考慮するという立場を採用していた。
革命気運の高揚

1890年代、多くの知識人が武力革命によって清を打倒し、フランスアメリカのような共和制を確立していこうと唱えた。初期の革命思想の大部分は海外に居住する留学生や華僑青年によるものが多かった。また最初の革命団体もまた海外で組織され、1890年には楊衢雲(中国語版)を中心とする輔仁文社(中国語版)が香港で成立している。孫文もまた1894年11月24日にサンフランシスコで興中会を結成、革命に必要な軍資金の調達を開始した。両者は1895年1月に香港で合併し、興中会の名称で活動を継続、同年10月26日には広州で初めての武装蜂起である広州起義を起こしているが、これは失敗に終わった。この事件により香港への入国が禁止された孫文はロンドンに活動拠点を移した。翌年には清による孫文誘拐事件が発生、国際的に報道されたことにより孫文の名が広く知れ渡ることになった。

1900年の義和団の乱で清の威信は失墜し、翌1901年に締結された北京議定書により列強の中国進出がより顕著となったことから、清国知識人の間に危機感が広がった。日清戦争以降増加していた日本への留学生は1904年には2万人を越えるようになった。当時の留学生の多くが官費留学生であったが、革命思想が留学生間に浸透し、留学生による各種団体が設立され、民主革命の必要性が広く訴えられた。留学していた革命参加者には章炳麟、鄒容、陳天華などがおり、彼らは後に国内革命組織の根幹を構成することとなる。1904年に日露戦争が勃発すると清朝は中立を宣言したが、その主戦場は清国満洲地区であった。外国軍隊が自国領土内で戦闘を行う事態に救国の声が高まり、黄興が指導する華興会、陶成章及び蔡元培が指導する光復会を初め、江蘇の励志学会、強国会、四川の公強会、福建の益聞会、漢族独立会、江西の易知社、安徽の岳王会、広州の群智社等、各種団体が設立された。これらの革命団体は、相互に提携することは少なく地方色の強い個別運動であったが、清打倒と漢族による共和制による政権樹立を共通の目的としていた。当時は漢族による政権樹立が主眼に置かれたため18省での政権樹立を目指し、東三省、内蒙古、モンゴル、青海、西藏、新疆は当初活動範囲から除外されていた。これらの革命活動は反清を掲げる地下組織と提携する例もあり、華興会湖南地区)は哥老会と、光復会地区)は青幇と、興中会(華南地区)は三合会とそれぞれ密接な関係を構築していた。

日露戦争での日本の勝利は、アジアの小国が大国を倒したことで世界中に衝撃をもたらし、清国の孫文やベトナムからも民族独立をめざす革命家が来日した[1]

1905年夏、孫文は日本で興中会、華興会、光復会等の各団体を団結させることに成功、8月20日に東京にて中国同盟会が組織され[1]、「駆除韃虜、恢復中華、創立民国、平均地権」を定めた綱領が『民報』(旧名は華興会機関紙の『二十世紀之支那』、同盟会成立後に改称)上に発表された。同盟会は積極的な宣伝活動を行い、大衆への啓蒙を通じて革命運動を大衆運動へと拡大させていった。『民報』は章炳麟、陶成章らが主筆となり胡漢民汪兆銘が執筆。康有為梁啓超が主編した保皇派機関紙であった『新民叢報』と論戦を繰り広げた。

この他の革命団体は下記の通り。
共進会
1907年7月、同盟会の一部より長江流域での革命発動を行うべきと主張する劉揆一、焦達峰、張伯祥、孫武などが東京にて共進会を組織し、同盟会と共に武昌起義を指導していくこととなった。
日知会
1906年2月に劉静庵を代表成立、孫武張難先、何季達、馮牧民など百名以上が参加し、後に同盟会湖北分会期間となった。
南社
1906年より江南地区では陳去病等により黄社、神交社、匡社等の文学団体が設立され、1909年に南社が誕生、文学作品を通した新思想の啓蒙が行われた。
文学社
1911年1月30日、振武学社は文学社と改名され、?翊武を社長、・大悲を文書部長、劉復基を評議部長に選出した。文学社は新軍内部の青年軍人組織であり、革命思想の新軍内部への浸透と武器調達を担当し、武昌起義で指導的な役割を果たした。
革命構成員

辛亥革命は帰国した留学生や知識人のみならず、各会派に参加した一般群集、海外華僑、新軍兵士、地方士紳や農民など幅広い出自層による革命であった。
新興知識人

新興知識人は海外で新知識を学んだ留学生と新式学堂で学んだ学生が主体である。科挙制度廃止後、清は西欧式教育を導入すると共に海外留学を奨励した。陶成章の提唱のもと、徐錫麟を初めとする多くの留学生が日本を始めとする海外で最新の軍事教育を受けて帰国している。

1900年代、清国では日本留学熱が高まり、辛亥革命直前には数万人が日本で留学していた。日本で学ぶ留学生の周辺には革命思想が浸透し、1905年の中国同盟会が東京で成立した際には90%以上の会員が日本で学ぶ留学生であった。また日本で軍事教育を受けていた同盟会会員による丈夫団も結成されている。日本留学した学生等は辛亥革命の中で大きな役割を果たし、指導者の孫文を初め、黄興、宋教仁、胡漢民、廖仲ト、朱執信、汪精衛(汪兆銘)等の革命指導者の殆どが日本留学の経験者であった。
結社参加者

清末期、各地で洪門天地会五房の長房青蓮堂、二房洪順堂、三房家后堂、四房参太堂、五房宏化堂または別の四川発祥の哥老会などの秘密結社が結成され、反清活動を展開した。これらの秘密結社に参加したのは地主士紳、農民、手工業工者、商人などであり、士兵を初めとする都市で生活する各階層の民衆や無頼漢によっても構成され、地主士紳階層が中心となり「反清復明」の思想を提唱した。

哥老会は華興会を、青幇は光復会を、三合会は興中会とそれぞれ親密な関係を構築し、孫文もかつては広東省由来の洪門二房洪順堂会派の致公堂の会員であった。1908年以前、革命人士はこれらの結社と緊密な連絡のもと武装蜂起の準備をすすめ、清打倒に重要な役割を果たした。
海外華僑

海外華僑も辛亥革命の中で重要な役割を果たしている。


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