辛亥革命
[Wikipedia|▼Menu]
さらに、1894年(光緒20年)の日清戦争日本に敗れた事で洋務運動の限界が露呈することになった。

これに対し、康有為を中心とする改革派は、日本の明治維新をモデルとして立憲君主制を維持しながら政治・社会制度に大幅な改革を求める内容の上奏を行い、1895年(光緒21年)、光緒帝の支持を獲得、1898年(光緒25年)に戊戌変法が実行に移された。しかし、急進的な改革は保守派の反発を招き、この改革はわずか103日で失敗、改革派は海外亡命を余儀なくされた。

1900年(光緒26年)に義和団の乱が発生、進駐した八カ国連合軍オーストリア=ハンガリー帝国フランスドイツ国イタリア王国大日本帝国ロシア帝国イギリスアメリカ)によって北京が占領されるという事態が発生すると、それまで改革に慎重であった保守派の間にも改革の必要性がようやく認識され、戊戌変法と同様の改革案が提出・実行された。1906年(光緒31年)9月1日には憲政移行の方針を定めた『欽定憲法大綱』を発表し、1910年宣統2年)には中国初の議会として、中央に資政院(中国語版)が、新疆省を除く各省には諮議局(中国語版)がそれぞれ発足。1911年(宣統3年)5月には内閣が設置されたが、内閣成員の半数が満洲人、内皇族が5名を占める皇族内閣であり、憲政移行を求める知識人の間に失望が広がった。
新軍編成訓練を受ける北洋新軍

清末期には、八旗及び漢人緑営を主体とする清中央軍は実質的な戦力を喪失していた。太平天国鎮圧に際しては各地方の兵力に依拠し、日清戦争では旧式軍隊の落伍が顕在化した。清は軍事維持を目的に1901年(光緒27年)に陸軍の全面改革を実施、全国に新式陸軍36鎮を設置し、その内6鎮を朝廷直属とし他は各地方巡撫・総督の管轄とした。新式軍隊の幹部を養成するために各地に軍学堂が設置され、一部地域では留学生を軍官に積極的に採用するようになった。
反清思潮

清を構成する満洲人への反発は存在していたが、清中期には表面化することはほとんどなくなった。しかし、清末の政治的閉塞感から漢人の間に反満意識が形成されるようになった。太平天国では満洲人排除が政治主張に含まれ、1890年代になると明末の著作に刺激を受けて満洲人排除の潮流が発生してきた。清朝打倒を目指す革命運動家は反清復明思想を利用し、鄒容による『革命軍』などの著作が生まれ、知識人の間に広がった。孫文などの革命勢力は、満洲人満洲に追い出して漢人の明王朝が支配していた黄河・長江流域とその周辺地域に漢人の国家建設を目指そうとした[4]。しかし、辛亥革命後は革命スローガンの「打倒韃虜」に因り警戒を引き起こした満族、モンゴル族、回族、チベット族を取り込むために漢族と合わせた「五族共和」を唱え始めた[4]
革命組織

辛亥革命は興中会(華南地区)、華興会湖南地区)、光復会地区)及び後に成立した中国同盟会により実行された。この他共進会(長江流域)、文学社、同盟会中の丈夫団なども革命に関与している。中国同盟会は全国革命組織が緩やかに団結した連合体であり、同盟会会員は各地に様々な外郭組織を構築していた。

革命の代表的指導者には孫文黄興宋教仁蔡元培趙声章炳麟陶成章などが挙げられる。
政治主張

革命における主要な政治主張には清打倒と共和制政体の確立がある。1894年11月24日に成立した興中会は「満洲駆逐、中華回復、衆議政治の確立」を活動骨子に定めている。また1904年2月15日に成立した華興会でも「満洲駆逐、中華回復」を政治主張とし、1905年8月20日に成立した中国同盟会でも「満洲駆逐、中華回復、民国建国、地権平等」を綱領に定め、民族主義、民権主義、民生主義が唱えられた。革命団体が一線で活動を行う際には清朝打倒と中華回復を強調し、民衆の中に反満感情を扇動して、清打倒に主眼を置いた。清崩壊後にどのような政治制度が採用され、どのような社会改革が行われるかについては、当時の活動家は清崩壊後に改めて考慮するという立場を採用していた。
革命気運の高揚

1890年代、多くの知識人が武力革命によって清を打倒し、フランスアメリカのような共和制を確立していこうと唱えた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:92 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef