ロシア革命やドイツ革命で帝政国家が倒されると、社会主義思想が高揚し、1922年に日本共産党が非合法のうちに結成された。しかし、政府は普通選挙の実施と引き換えに治安維持法(1925年)を制定してこれらの動きに対抗した。第1回普通選挙の後、三・一五事件(1928年)、四・一六事件(1929年)と共産主義者らの一斉検挙がおこなわれた。 1928年の三・一五事件で検挙された水野成夫ら日本共産党労働者派は獄中転向第一号とされた。1933年6月には日本共産党委員長の佐野学は鍋山貞親とともに獄中から転向声明を出した[2]。どちらも京都学連事件でも指揮をとり、後に思想犯保護観察所をつくる東京地方裁判所検事の平田勲
戦前
1933年9月時点では、治安維持法違反容疑で拘束されている未決被告1370人のうち30%、既決372人のうち36%が転向を表明していた。刑務所別で見ると大阪刑務所は236人中109人、豊多摩刑務所が278人中182人と高い率を示していた[5]。
拷問による転向もあったが、警察官や思想検事に「故郷の両親は泣いているぞ」などと情に訴えられる精神的な方法で説得された者もおり、転向した学生は大学当局や文部省から復学をすすめられ[6][7]、社会復帰のために司法省に保護されて内務省や特高警察官から就職も斡旋されるなど様々な好条件で懐柔された[8][9]。しかし、日本共産党などの活動は大衆との結びつきが薄く、インテリ層を中心としたものであったため、活動が大衆の生活や要求と遊離していることに悩み、運動から離れた者も多かった。転向しなかった194名が拷問で殺され、1503人が獄中で病死したとされている[10]。
昭和前期に治安維持法違反容疑で検挙された者は7万人を超えるといわれるが、多くの者が転向の誓約書を書いた。ハインリヒ・ヒムラーは、日本の共産党員が簡単に転向することを知り「ウンデンクバール(考えられない)」と驚いた[11]。最後まで主義を貫いたのは日本共産党でも徳田球一・宮本顕治・袴田里見などごく少数(第二次世界大戦終結後まで残り、法廃止で釈放された者は“人民戦士”と称えられ、党幹部になった)であり、ほとんどの者が共産主義を放棄し、転向した(江田三郎も転向組である。圧迫に耐えかねた偽装転向、仮装転向と称されるものもあった)。
当時の日本で主に国家社会主義への転向者が多かった背景には、統制経済政策に代表されるような全体主義という点では、ソ連型社会主義も国家総動員体制も共通項が存在したためといえる。また、転向したものの中には満洲国に理想の新天地を求めて大陸に渡ったものも多い(満鉄調査部)。もとプロレタリア作家の山田清三郎は満洲で文学運動の一翼を担い、大間知篤三は満州建国大学の教授となった。
1941年、治安維持法が改正され予防拘禁制度が始まった。これは懲役刑を受けている非転向左翼を刑期を終えた後も出所させず、刑務所内の拘禁所に留め置く措置であり、転向を拒否し続けた徳田球一ら共産党関係者が1945年10月まで拘束される契機となった[12]。 とくに、文学の分野では転向問題をテーマにした作品が多くかかれ、村山知義の『白夜』、中野重治の『村の家』などが知られ、島木健作の小説『生活の探求』(1937年)は当時、ベストセラーになるほどであった。
転向文学