軍隊
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1978年12月7日に発効した ジュネーヴ諸条約第一追加議定書第43条によれば、「軍隊とは「部下の行動について当該紛争当事者に対して責任を負う司令部の下にある組織され及び武装したすべての兵力、集団及び部隊から成る」と定義されている。国際法上交戦権を有する存在で、責任ある指揮者の指揮のもと、遠方から識別しうる標識を有し、公然と武器を携行し、戦争法規を遵守するもの。正規の陸・海・空軍のほかにも、民兵、地方人民の蜂起したもの、商船が軍艦に変更したものまで含む[2][注釈 1]


ゲリラ等に関しては、交戦権を有しているかどうかが議論となることがあるので、交戦権を定義文に含める場合は、ゲリラが軍隊かどうかは議論となることがある。また、識別という点でも、軍隊か否か議論となることがある[3]。 定義文に「国家によって管理運営されている」といった表現が入る場合もある[注釈 2]。また、別の角度からとらえた極めて狭義の定義としては「学校、研究所、工作庁、官庁などを含まない部隊」などというものもある。


広辞苑では「一定の組織で編成されている、軍人の集団」としている。

の武装兵力[3]

発達史

軍隊の形態は、その時代と国によって細部が異なるために一概には言えないが、ここでは西欧と日本における軍隊の発達史を概観する。
前近代の軍隊

原始社会においては、集落における男性が戦闘員の役割をも担っていたが、今日のような常備軍や職業軍ではなかった。古代において、人口の増加と共に国家体制が組織化または階級化されていき、それに従って軍隊組織の合理化が進んだ。古代ギリシャにおいては市民には兵役が課せられており、例えばスパルタにおいては、20歳から60歳の男性市民は軍事教練を受け、都市の防衛力の維持に努めていた。同時に古来より職業的な戦闘技術を習得した傭兵も登場しており、エジプト等の諸地域で活躍している。

中世には都市の発達と関連して自発的な市民軍の専門化と有給化が進んで傭兵とは異なる職業軍人が現れる。このような軍人は封建制の中で騎士階級として成長した。そのために騎士団やその装備を維持管理するだけの経済負担に耐えられるだけの地位にある貴族だけが軍人としての地位を独占した。しかし部隊を維持するための経済的な負担を最低限にすることも必要であったために、14世紀15世紀には営利目的の傭兵団も活躍し、英仏百年戦争で兵士に賃金を俸給として支払うことがイギリスから始まって後、ヨーロッパで一般化していった。

中世の戦法は、騎兵が主体となった儀式的な一騎討ちであったが、13世紀小銃の発明によって小銃を装備した歩兵が主体となった集団戦法が普及し、また射撃や築城についての専門的な技能を身に着けた職人を雇い入れて砲兵工兵として組織することもこの頃に始まる。これらの変化はそれまで貴族が独占していた戦士階級を民衆にも広げ、軍隊の民衆化を促進することになった。
近代化の思想

近代に入ると軍隊はより効率的な組織運営が求められ、指揮官は貴族など身分によるものではなく専門教育を受けた士官が任命され、命令系統は上意下達により一本化されるようになった。

近代的な軍事制度の先駆者としては、『君主論』を執筆したマキャヴェリ三兵戦術の創始者でもあるグスタフ2世を挙げることができる。グスタフ2世は、それまで曖昧であった階級や編制を整理してスウェーデン軍の制度を大きく改革した。それまでの民間からの技術者を正式に兵員として組織して砲兵を兵科として創設し、現在でも広く用いられている大佐中尉軍曹等という軍隊における階級が整理され、4個中隊から成る大隊を基本的な戦闘単位とし、3個大隊から一個旅団を編制し、この旅団編制を恒常化した。旅団または連隊指揮官は大佐、大隊中佐中隊大尉、小隊長は中尉や少尉を充てて制度化し、ヨーロッパ諸国と近代的な軍隊の標準として受け入れられていった。

マキャヴェリは、それまで傭兵団に依存していたイタリアの軍事力を批判して、市民から構成される常備軍の必要性を主張し、彼の軍事力を重要視する現実主義の政治哲学と共に、この考え方は広くヨーロッパに普及した。また、軍事教練を段階的に実施して、部隊の錬度を高める教育法を論じた。
国民軍への変化

軍隊の組織が大きく変化した契機となった事件にフランス革命がある。フランス革命は貴族軍という従来の軍制を覆して国民軍に変化した。


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