軍神
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スサノオ

ウマシマデ

ヤマトタケル

などが軍神とされた。その他の軍神たちについてはCategory:軍神を参照
中世?近世の日本

中世武士の時代になると源氏石清水八幡を氏神とし、各地の源氏も八幡神を祀ったところから、八幡神を軍神とした。
復興軍神

楠木正成

新田義貞

戦国時代

越前朝倉氏の武将・朝倉宗滴は、軍事的には軍奉行として朝倉軍を率いて数々の武勲を立てて朝倉家の武威を高めると周辺諸国に恐れられ、軍神と呼ばれた。

豊後大友氏の武将・立花道雪は、大戦37回小戦百余回ほぼ無敗の戦績であり、その軍才と勇猛は諸国に知られて恐れられ、九州の軍神として誉めたたえられた。


越後戦国大名上杉謙信は、自身が毘沙門天の信仰により、そしてあまりの戦上手として軍神と呼ばれ、他の大名に恐れられていた。

近代の日本の軍神

戦死の記事も参照のこと。 明治以降の日本での軍人としては乃木希典大将東郷平八郎元帥のほか以下に列する人々が著名である。当初は公式のものではなく、主にマスコミ尊称として用いていた。西住小次郎以後、軍が公式に指定するようになり、軍神に指定された軍人の生家には「軍神の家」という表札が掲げられるようになる。軍隊内においても精神的な指導としてもあった。また、この時代は皇室に忠誠を尽くした日本史上の人物も軍神の象徴として神格化された。
広瀬武夫中佐詳細は「広瀬武夫」を参照

日露戦争中の旅順港閉塞作戦において、閉塞船福井丸を指揮していた海軍少佐(戦死後に海軍中佐広瀬武夫は、敵弾飛び来る中で行方不明となった部下の海軍一等兵曹(戦死後に海軍兵曹長杉野孫七を探して退避が遅れ、ロシア海軍砲弾の直撃を受けて戦死した。

決死的任務を敢行し、また自らの危険を顧みず部下の生命を案じて戦死を遂げたことから、歿後すぐに[4]軍神とされた。のちに唱歌広瀬中佐』に「杉野は何処、杉野は居ずや」のように歌われた。現存しない東京・万世橋駅前には広瀬(と杉野)の銅像も建てられていた。
橘周太中佐詳細は「橘周太」を参照

日露戦争中の遼陽会戦において、歩兵第34連隊第1大隊長であった陸軍少佐(戦死後に陸軍中佐橘周太は、首山堡攻略に当り最前線で指揮を執り全身に傷を負いながら、一歩も引くことなく壮烈な戦死を遂げた。特にこの日(8月31日)がかつて東宮武官として側近く仕えた皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の誕生日であったことから、命を賭して首山堡攻略に努めたとされている。彼の戦死もまた『橘中佐』という唱歌に歌われた。
佐久間勉大尉詳細は「佐久間勉」を参照

1910年(明治43年)4月15日、山口県新湊沖にて第六潜水艇がガソリン潜航実験の半潜航訓練中に沈没、艦長の佐久間勉大尉以下14名全員が殉職した。佐久間艇長は艇内にて最期まで冷静かつ的確な指示を行った結果、混乱が起こることは無くほぼ全員が持ち場を離れず死亡しており、持ち場以外にいた者も潜水艇の修繕にあたっていた。佐久間自身はガスが充満し死期の迫る中、39ページにも及ぶ遺書を残しており、その中で明治天皇に対する潜水艇の喪失と部下の死を謝罪し、事故原因の分析を記していた。これは国内外から大きな反響を呼び、長らく修身の教科書でも紹介された。
肉弾三勇士詳細は「爆弾三勇士」を参照

爆弾三勇士」とも。第一次上海事変時、国民革命軍第19路軍が上海郊外に築いた陣地の鉄条網に対して、突撃路を築くため、点火した破壊筒をもって敵陣に突入爆破し、自らも爆死した独立工兵第18大隊(久留米)の3名の一等兵(戦死後に伍長)のことを指す。昭和期に入って初めての軍神。

江下武二 伍長


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