軍旗は陸海軍の大元帥たる天皇から直接手渡しで授けられる(「親授」という)極めて神聖なものであり、また天皇の分身であると認識されたいへん丁重に扱われ、帝国陸軍や連隊をあらわす旗という意味以上の存在とされた。軍旗に対しては天皇に対するのと同様の敬礼が行われた(#軍旗に関する敬礼)。陸軍の礼式曲(礼式歌・礼式喇叭譜)中、軍旗に対するものとしては「足曳(あしびき)」が制定されており、これは主に軍旗に対する敬礼を行う際に吹奏された。
1936年(昭和11年)に起こった二・二六事件では、戒厳司令部が「勅命下る 軍旗に手向かふな」(「お前達のやっていることは天皇陛下に対する反乱であり、陛下から鎮圧命令が出た」という意味)と書かれたアドバルーンを掲揚、またラジオ放送においても「兵に告ぐ。勅命が発せられたのである。既に、天皇陛下の御命令が発せられたのである。 (中略) 今から-でも決して遅くないから、直ちに抵抗をやめて、軍旗の下に復帰するようにせよ」と勧告、反乱将兵に対し原隊帰順を促している。
日本(大日本帝国)においては、他国の陸軍と同様またはそれ以上に軍旗が神聖視され、軍旗を喪失することは極めて重大な失態と考えられた。西南戦争を描いた月岡芳年の浮世絵(錦絵)『鹿児島征討記内 熊本城ヨリ諸所戦争之図』[3]では、「野津大佐軍旗を奪還す」の副題の通り、西郷軍に一度奪取された歩兵第十四聯隊軍旗を野津道貫陸軍大佐が奪還するシーンを華々しく描画している(これは陸軍による宣伝であり実際は奪還していない。戦後警察が発見。後述)。反面、軍旗奪還のために無謀な作戦を行い却って部隊が損害を受けるなど、本末転倒ともいうべき事態も発生した。なお、西南戦争下の1877年(明治10年)2月22日、歩兵第14連隊は植木町田原坂付近にて西郷軍の大部隊と激戦となり、移動中の連隊旗手・河原林雄太陸軍少尉は戦死し軍旗が奪取された。この事件に対し連隊長心得(連隊長代理)・乃木希典陸軍少佐[4]は、総指揮官・山縣有朋陸軍大将に対し待罪書を送り処分を求めた。この軍旗喪失は不可抗力として不問に処され翌年1月21日に再授与されている。なお、再授与直後に歩兵第14連隊軍旗(旧)が発見され、陸軍省が回収・保管していた(「歩兵第14連隊#本連隊の軍旗」を参照)。
軍旗自体の所掌事務は陸軍省(陸軍大臣)が、製造は陸軍省の外局である陸軍兵器行政本部(最終時)の管轄であったが、製造自体は基本的に民間への外注であり、東京の大手高級軍装品店「株式会社寿屋商店(すやしょうてん)」が制作・納入している。また、軍旗の管理上の扱いは建前ではあるが「兵器」とされていた[5]。
親授は「軍旗親授の儀」(『皇室儀制令』 大正15年10月21日皇室令)により、旗手や連隊長は正衣(大礼服)着用の上、諸式にのっとり宮中(皇居)にてとりおこなわれ勅語とともに軍旗が下賜された。1930年代の歩兵連隊の軍旗と連隊旗手。中島佐一薬房による正露丸(征露丸)の雑誌広告
旗手(連隊旗手)は、新任の少尉(稀に中尉)の中の成績最優秀者が1年間交代で務め、連隊本部附であった。旗手の要件は品行方正・成績優秀・眉目秀麗・長身であることが求められ、また暗黙の要件として童貞で、悪所通いをしない高潔な人物が選ばれた。旗手は日常の勤務においては、連隊副官の秘書のような形で、連隊本部の事務処理に当たった。さらに軍旗には誘導将校と数名の軍旗衛兵が付され、また戦場では軍旗を守護するために1個中隊が編成されるが、これは本部中隊たる予備兵力として運用された[6]。観兵式などにおける分列式において、連隊が『陸軍分列行進曲(観兵式分列行進曲)』および『観兵式行進曲』[7]にのせて分列行進する際は、軍旗(旗手・衛兵)を先頭に連隊長以下連隊将兵がこれに続いた。軍旗は決して後退しないとの建前から、軍旗を反転させる際の号令としては「回れ右」は用いられず、「右向け右」を二回繰り返すとされた。歴戦の証として旗の部分が失われ、周囲の房だけ残った騎兵第16連隊(騎兵第十六聯隊)の軍旗(1933年)
軍旗は完全に失われない限り再授与されることはなかったため、佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争、日清戦争、北清事変、日露戦争、第一次世界大戦(日独戦争)、シベリア出兵、満州事変、第一次上海事変、日中戦争(支那事変)、張鼓峰事件、ノモンハン事件、第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)などを経た歴史の古い連隊の軍旗は、旗部分が殆どなくなり房だけとなった物がきわめて多かった。