軍師官兵衛
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播磨国姫路・山崎編

戦国時代後期、播磨国の小名小寺家に仕える一人の青年がいた。名を黒田官兵衛、後に天下人の軍師として名を馳せることになる男である。

織田と毛利の両大国に挟まれる形となった播磨で生き残る道を模索する官兵衛は織田に従属することを進言し、旧友の荒木村重を頼り織田信長と面会し従属の意を伝える。後の天下人である羽柴秀吉と彼の軍師竹中半兵衛と出会い、親交を深めていく。織田と毛利の争いが始まると、村重および主君小寺の裏切りにより官兵衛は村重の居城有岡城で一年におよぶ幽閉生活を余儀なくされる。一年後に生きて救出された官兵衛だったが、五体は満足に動くことができなくなるという代償を背負うことになる。

小寺の滅亡により織田家臣として迎えられた官兵衛は幽閉生活中に亡くなった半兵衛の後を継ぎ、秀吉の軍師として毛利との戦いを進めていく。そして1582年6月1日、明智光秀の謀反により官兵衛と秀吉の運命が大きく動き出す。
豊前国中津編

信長の後継者として名を馳せることとなった秀吉だったが、官兵衛は石田三成の妨害もあり次第に距離を置かれるようになっていた。1586年、羽柴軍は九州を平定。関白と豊臣姓を与えられた秀吉の命により黒田家は住み慣れた播磨を離れ、九州は豊前国中津に国替えとなる。約束を反故にされた地元領主の宇都宮家との軋轢により国替えは順風満帆には行かず、宇都宮家を滅ぼすという悲劇的選択を取らざるを得なくなる。

1590年、小田原征伐によって豊臣家による天下統一が実現する。秀吉は第二の正室となった茶々を溺愛し、筆頭茶頭であった千利休に切腹を命じるなど次第にかつての面影は見られなくなっていた。嫡子鶴松の死をきっかけに秀吉はへの進軍を号令、その足がかりとして朝鮮へ進軍することとなる。その中で官兵衛は三成の謀略により切腹の危機を迎えるが、出家し黒田如水と名を改めることで回避する。

1598年、秀吉が死去したことで雌伏の時を終えた関東八州の大大名、徳川家康が台頭する。全国の大名が家康と三成のどちらかに付く中で、官兵衛は人生最大にして最後の大勝負に出る。
登場人物
黒田家

当時の黒田家は赤松庶流の小寺姓を姫路城代として名乗っていた。官兵衛、職隆、休夢、兵庫助の役名は黒田家が小寺家と袂を分かつ第25回まで「黒田(小寺)+名前」で表記されていた。
黒田家一門
黒田官兵衛(くろだ かんべえ)
(万吉 → 黒田官兵衛 → 黒田如水)演:岡田准一(幼少期:若山耀人播磨姫路城主・黒田氏嫡男豊臣政権においては豊前国中津を治めていた大名。幼名は万吉(まんきち)、元服後のは孝高(よしたか)、出家後は如水円清(じょすいえんせい)を名乗る。霊名はシメオン。以前は父と同様、小寺姓も称していた。幼少期は剣の修練や勉学に身が入らず、加えて何かに夢中になるとへ行くことも忘れてしまい小便を漏らす悪癖の持ち主であったが、龍野の一件で改心してからは剣の修練を真剣に行い、勉学にも力を入れとりわけ兵法書を読破する知恵者となった。元服後は政職の近習となり、光と祝言を挙げてからは黒田家の家督と姫路城城主並びに小寺家家老の座を受け継いだ。その少し後に、かつて堺への旅で出会った荒木村重と再会を果たし、親交を深めてゆく。播磨が織田と毛利の両陣営に挟まれつつある中で小寺が生き残る道は織田に従属することを説き、小寺を織田に従属させることに成功する。半兵衛とは当初いがみ合う関係であったものの、尊敬する人物として昇華された。毛利に寝返った政職から同じく毛利に寝返った村重を説得すれば織田に戻ると約束を取り付けるも、説得に向かった有岡城で村重に捕縛され、牢に幽閉される。それから1年後、有岡城落城の際に善助らによって助け出され、のちに有馬温泉で療養するも痛めた足だけは完治しなかった。幽閉生活を経て冷徹な言動を見せ始め、狡猾かつ老獪な采配を振るようになる。後に政職が逃亡したことで小寺家は大名家として事実上の滅亡となり、黒田家は正式に織田家臣として迎えられ大名の仲間入りを果たす。備中高松水攻めの最中に本能寺の変が起きたことを知ると、覇気を失いかけた秀吉に御運が開けたと信長の後継者となるよう煽る。毛利との電撃和睦からの中国大返しからの山崎の戦いへの絵図を描き、信長の仇を取らせた後、賤ヶ岳の戦いにおいて秀吉の勝利に貢献する。小牧・長久手の戦い以降は三成の讒言もあり秀吉から次第に敬遠されるようになる。九州攻めの後、関白となった秀吉に播磨山崎から豊前国中津に移封される。家康と対面を果たした際、秀吉が自身に対して恐れを抱いている事を聞き、黒田の家を守るため長政に家督を譲る事を決意し隠居を願うも家督相続のみ許される。文禄の役において三成の謀略にはまり、その結果秀吉の怒りを買い蟄居を命じられ、切腹の危機を出家と茶々および小早川らの嘆願書により事なきを得る。秀吉の死後、天下が再び荒れることを予測する。徳川と石田のどちらにも付かず、九州の地より自らの手で天下を掴む人生最大の大勝負に出る。手始めに九州で勢力を伸ばしていくが、九州全土を制圧する前に天下分け目の関ヶ原の合戦が決着したことで、その野望は潰える。その後は「二度と戦のない世を作る」と語る家康に自身の敗北を認め、また東軍の勝利に貢献し黒田家を躍進させた長政を「わしを越えた」と述べ、慶長9年(1604年)にその生涯を閉じた。
(てる)
(光 → 照福院)演:中谷美紀官兵衛の正室。櫛橋左京亮の次女。官兵衛とは小寺に忠誠を立てるための政略結婚であり、元々は姉の力が嫁ぐはずであったが激しく拒んでいたため、初対面の時から官兵衛を憎からず思っていた光自らが名乗り出て嫁ぐこととなった。才色兼備で良妻賢母な女性であり、官兵衛の言動に意見することはあまりない。ただし官兵衛が病弱な斎の代わりに松寿丸を信長への人質にすると言った際だけは、直前に文四郎から信長への人質だった久秀の息子二人が処刑された件を聞いていたことや、優柔不断な政織に黒田家が振り回されてきた経緯もあって猛烈に反対しており、後に松寿丸自身に説得されている。また、戦で官兵衛が不在の際には官兵衛の代わりに城主として領民を護ろうとする気丈な一面もある。女性ながら薙刀の名手で剣の腕前で松寿丸に勝っていた又兵衛が稽古でわざと手を抜いて負けたのを見抜いて咎めた際、「弱い者と稽古しても強くなれませぬ」と反論した又兵衛を薙刀で打ち倒してから「女だから弱い、体が小さいから弱いと相手を甘く見て手加減をするのは愚かなこと。手加減や手抜きをしたところで強くはなれません」と松寿丸や又兵衛に説いた。備中高松城攻略戦より前に第二子の熊之助を産んでいる。慶長の役にて熊之助が遭難したことを受け入れられず、気丈に振る舞うが官兵衛の言葉でようやく受け入れている。また、兄の遺児たち(二男二女)や出家する姉から託された娘たちを引き取り、養子にしている。
黒田長政(くろだ ながまさ)
(松寿丸 → 黒田長政)演:松坂桃李(幼少期:秋元黎 / 少年期:若山耀人)官兵衛の嫡男。幼名は松寿丸(しょうじゅまる)。家督相続後の豊臣政権では中津の大名、関ヶ原の戦い以後は筑前五十二万石の大大名。七将襲撃事件の実行犯の一人。信長が播磨の城主に人質を要求した際には、光の反対を押し切り自ら人質になることを願い出ている。


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