軍事貴族は、当然ながら軍事面で朝廷に貢献することが求められた。彼らは滝口(北面武士)を勤めた後、宮中の警護にあたる蔵人、京市中の警察である検非違使などの武官に任じられた。武官としての功績を積んだ後は、他の諸大夫階層の技能官人層に属する中下級貴族が家業の功績を積んだのと同様に、受領として諸国へ赴任する例が多かった。当時、太政官から発給された「追捕官符」を根拠に、国司が国内の武士を軍事力として編成し、「凶党」の追捕に当たるという国衙軍制が成立しており、軍事貴族の「武家」としての職能はこの国衙軍制の中で十二分に発揮されたのである。
国衙軍制において国司は、次に掲げる者を「武士」として名簿(「武士交名」という)に登録した。それは、承平天慶期の勲功者の子孫で侍身分の技能官人の家と認知され、武芸を家業としている郡司・富豪百姓・田堵負名らである。いざ凶党追捕の際には、国司は武士交名を元にこれらの者を軍事力として編成していた。軍事貴族は、承平天慶期より継続的に在地の郡司・富豪百姓・田堵負名層との関係を構築していたため、国内軍事力の編成に関しては、通常の受領よりも格段に有利であった。また彼らは受領として地方に赴任した際には、在地の有力者たちとの関係を更に深めるのが通例であった。こうして軍事貴族と在地の豪族との間には、主従関係が徐々に築かれていった。ただし、当時すでに強固な主従関係が見られたわけではなく、流動的な側面を持つ主従関係だったことに注意する必要がある。
軍事貴族たちはこのようにして受領を勤めた後、再び別の国の受領となったり、あるいは衛門尉や刑部丞などの武官的な官職に補任されることが多かった。 軍事貴族は他の技能官人層の中下級公家と同様、摂関家など有力公家の家司や治天の君の院司として、私的に奉仕するという側面も持っていた。清和源氏は源満仲以来、藤原北家(摂関家)の家司として代々仕え、同家による他氏排斥の際には藤原北家の家司として積極的に関与した。また清和源氏は摂関家の私兵として仕伺したり摂関家へ多大な成功(じょうごう)を行うなど、摂関家の権勢維持に大きな役割を果たした。 一方、国香・貞盛流桓武平氏は藤原北家の九条流(貞盛の弟繁盛が藤原師輔、貞盛の子維衡が藤原道長など)以外にも藤原顕光や藤原実資の家司として仕えたが、清和源氏に比べると遅れをとっていた。 摂関家への貢献によって清和源氏は優遇されるようになり、源頼光・源頼親兄弟、源頼義・源義家父子が正四位という軍事貴族最高位に相次いで叙せられ、武家の棟梁というべき立場を得るに至った。ここで注意しなくてはならないことは、清和源氏が武家の棟梁という地位を得たのは、その武勇によってというよりも、摂関家への奉仕という中央公家の内部事情に起因するという点である。軍事貴族は確かに在地有力者との主従関係の構築を進めてきてはいたが、その存立基盤はやはり中央政界にあったのである。 白河院による院政が始まると、平忠盛は院近臣の郎党となって白河院に接近してゆく。院司となり、正四位に叙せられて軍事貴族の最高位者、すなわち武家の棟梁として台頭していった。武家の棟梁の地位が源氏から平氏へ移動した背景には、中央政界の中心が摂関家から院政を布く治天の君へ移動したという事情がある(源氏は摂関家の権威を背景に、平家は院の権威を背景に台頭したことによる)。これは、武家の棟梁の地位、ひいては軍事貴族の地位が中央政界の動向に制約されていたことの証左とされている。 12世紀中期の保元の乱・平治の乱は、朝廷内部の政争が軍事衝突によって解決された画期的な事件である。これを契機として、軍事貴族の最高位者である平清盛とその一族は、宿敵の源義朝を倒して、朝廷内部で台頭していった。清盛は、1160年にそれまでの軍事貴族が就きえなかった正三位参議になると、1167年には太政大臣にまで昇り詰め、もはや軍事貴族としての枠を遥かに超えてしまった。 清盛一族はさらに権力を強化し、ついに平氏政権を樹立した。これは軍政官を派遣するなどの点で、最初期の武家政権としての性格を有している。 1180年代になると、平氏政権打倒を名目とした内戦(治承・寿永の乱)が起こり、軍事貴族に出自し、関東の在地領主層=武士層を基盤とする義朝の子である源頼朝の武家政権(後世に鎌倉幕府と呼ばれる政権)が最終的に勝利した。朝廷は、頼朝を軍事貴族の最高位者として処遇しようとし、権大納言や近衛大将に任官するも、頼朝はこれを辞官。関東武士層を権力基盤とする頼朝は軍事貴族としての地位を否定し、鎌倉殿という新たな武家棟梁の地位を確立した。しかし頼朝は9ヶ国[4]の知行国主であり、まだ軍事貴族としての性格を強く持っていたが、頼朝の血統の断絶により、軍事貴族と呼ぶべき実態は発展的に解消されていった。 一方、頼朝の政権確立後も大内惟義・源頼茂・藤原秀康など一部の軍事貴族は頼朝と主従関係を結びながらも、従来のように治天の君である後鳥羽上皇によって検非違使や北面武士に任じられて朝廷や京都市中の警固にあたるとともに朝廷の軍事力の基盤を担っていた。だが、彼らの多くが上皇が起こした承久の乱に連座して滅亡に追い込まれ、姿を消すことになった[5]。 平氏政権の滅亡は、在地農民層を武士の起源とする見解からは、平氏が武家としての本分を忘れて公家に取り込まれてしまったのが原因とされた。しかし、公家を武家の起源とする見地から見れば、むしろ平氏は軍事貴族としての従来の立場、武家としての本分に忠実であったと言える。平氏を打倒した源氏の側が、軍事貴族としての立場より、その軍事力の源である在地領主層を基盤とする立場に移動するという、新路線を歩んだのである。 また、南北朝時代に初代美濃守護となった土岐頼貞をはじめ、室町幕府を開いて征夷大将軍となった足利尊氏も、広義的な意味で軍事貴族となるも、応仁の乱によって足利将軍家は軍事貴族の機能を喪失して下剋上を迎え、同時に土岐氏も家臣の斎藤道三に国を奪われたたことから、完全に軍事貴族の意義は途絶えてしまった。 フランスにおいては法服貴族に対して帯剣貴族
院宮王臣家との関係
解消
国外の軍事貴族
脚注[脚注の使い方]^ 日下部氏の三嶋大社による関係性から伊豆北条氏も含まれる説もある。
^ 関幸彦『東北の争乱と奥州合戦』吉川弘文館、2006年
^ 平氏や源氏、藤原氏など中央の名門の末流が軍事貴族化していくこうした流れの他、地方の土着の豪族が軍事貴族化した流れもあったのではないかとの指摘もあり、それぞれの一族の中から鎮守府将軍を輩出している。
^ 武蔵・相模・上総・下総・伊豆・駿河・信濃・越後・豊後
^ 木村英一「六波羅探題の成立と公家政権」『鎌倉時代公武関係と六波羅探題』(清文堂出版、2016年) ISBN 978-4-7924-1037-7(原論文:2002年)
参考文献
野口実 『武家の棟梁の条件』 中央公論社〈中公新書〉、1994年、ISBN 4121012178
下向井龍彦 『日本の歴史07 武士の成長と院政』 講談社、2001年、ISBN 4062689073
関連項目
貴族
国衙軍制
王朝国家
地下人
在庁官人
国司
目代
公家
武家の棟梁
武家
豪族
武士
武士団
恩賞