軍事境界線_(朝鮮半島)
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警備面では1976年にこの区域で軍事衝突事件(ポプラ事件)が発生したため、以降は共同警備区域内においても軍事境界線の厳格化が行われた。しかし、1996年から1997年にかけて物品の受け取りを含む対北接触があったことが韓国で問題となり24名が摘発されている[2]
民間人出入統制区域詳細は「民間人出入統制区域」を参照

軍事境界線付近への一般民間人の立ち入りは、軍の活動に支障をきたすおそれがあるため、通常全般前哨(GOP:General Out Post)よりもさらに後退させる必要がある[1]。朝鮮休戦協定調印後の1954年2月にアメリカ陸軍第8軍団司令官により民間人統制線が設定された[2]。民統線(みんとうせん、???)と略して呼ぶこともある。この非武装地帯(南方限界線)より南側に5 - 20キロメートル下がった線までの区域を民間人出入統制区域(民間人統制区域)という[2]。この区域は軍事境界線に近い島でも設定されており、隅島(朝鮮語版)のように島全域が設定されている例もある。

韓国側にのみ設定されており、この民統線が一般人の立ち入れる北限となる。民統線を越えて区域内に入る場合、軍による検問所での手続きが必要である[8]

1958年以降は韓国軍が警備を担当しており、軍事上・保安上支障のない範囲で「出入農業」と「入居農業」が許可されている[2]。そのため朝鮮戦争休戦前から土地があるなどの理由で、特別に居住している住民が存在する。また1980年代から主に退役軍人らが開墾を始めて入植した屯田兵のような場所もある[6]
分断の状況
鉄道臨津江を越えて北側に続く京義線。民統線を示す鉄条網が設置されている。右側の橋脚は朝鮮戦争で破壊された旧上り線橋梁(ソウル釜山方面)の痕跡で、かつてここが複線の大動脈であったことを示す。猪津 - 金剛山を結ぶ国道7号線と東海北部線の線路

現在軍事境界線となっている線を跨いで京義線京元線金剛山電気鉄道東海北部線といった4本の鉄道が存在したが、いずれも第二次世界大戦後の南北分断と朝鮮戦争の戦禍の中で運行が停止された。このうち、金剛山電気鉄道は営業が再開されることなく事実上廃線となり、東海北部線は後に韓国側の区間が書類上再開業したものの、営業されず1967年までに全線廃止。京義線・京元線は復旧したものの南北に線路が分断された状態となった。廃線となり半世紀以上放置された路盤跡は、衛星写真などで確認できる[9][10]

その後、韓国側では線路分断地点(京義線?山駅、京元線新炭里駅)に、「鉄馬は走りたい」といった南北を結ぶ鉄道の再開通を願う看板が置かれたりしていた。

京釜線と並んで、ソウルと満州中国を結ぶ朝鮮半島における大動脈だった京義線は、民間人出入統制線の横たわる臨津江の手前で分断されていたが、2000年金大中金正日両首脳の南北首脳会談によって、京義線再連結工事の構想が持ち上がり、続く当事者会談によって正式に連結作業が合意された。

南側の京義線は、2001年臨津江駅まで、2002年に民統線を越えて境界線近くの都羅山駅まで延伸し、2003年より北側の開城まで再開通させるための工事が行われた。この工事中、分断当時の線路やタブレット閉塞機が発掘され、一部が資料館等で展示されている。

2007年頃、開城では開城工業地区の造成が進み、韓国企業の工場で北朝鮮労働者が働くようになっているが、南北鉄道の連結は工事こそほぼ終わっているものの、北朝鮮の軍部の反対もあり頓挫した状態であった。また、東海岸ではもう一つの南北連絡鉄道である東海線東海北部線嶺東線東海南部線の連結)の再開通工事が行われており、北側の金剛山地区では韓国企業の現代による観光開発が行われ、陸路・海路で韓国人が北側へ入ることができるようになるなど、2000年代に入ってからは軍事境界線が少しずつ開放されてきている傾向がある。最終的に2007年5月17日、京義線では56年ぶり、東海線では57年ぶりに軍事境界線を越える列車が試運転された。

京元線では、2012年11月20日に韓国側の路線が従来の終着駅である新炭里駅から北へ約5キロメートル延伸され、白馬高地駅が新たに開業した。また2015年8月より、民統線以北の月井里駅までさらに延伸する工事が開始され、2017年までの竣工を目指していたものの、2016年6月に工事が凍結され、開業時期未定となっている。最終的には北朝鮮側の線路とも繋がる予定だが、現段階では北朝鮮側の承認が得られていない。
道路

朝鮮戦争以降、軍事境界線を越える道路は長らく存在せず、南北の往来は板門店を通じて行われた。その後、南北交流の進展により、南北を結ぶ道路の建設が行われ、都羅山 - 開城工業団地、猪津 - 金剛山を結ぶ道路が、鉄道、南北出入管理事務所と共に整備された。通行にあたっては、あらかじめ通行できる時間が決められており、また時間ごとに集団で通行するために自由に往来することは出来ない。通行する際には、軍事境界線を境に南北双方の軍用車両が警護に当たる。
海上

軍事境界線は、朝鮮戦争の休戦条約に基づき陸上に設定されているが、海上には設定されていない。北緯38度線より北の黄海上の幾つかの島嶼を確保していた国連軍側は、休戦協定発効後の1953年8月に北方限界線 (Northen Limit Line) を宣言し、そこを事実上の境界としている。北朝鮮側は、これを黙認してきたが、1999年9月に北方限界線の南方に海上軍事境界線の設定を宣言した。しかし、これは実効力を伴っておらず、韓国側が北方限界線の効力を保っているものの、侵入してきた北朝鮮艦船と銃撃戦が発生することがある。
電力

1948年5月水豊ダムなど多くの発電施設を有した北側から南側への送電が停止された[11]。このため、アメリカ軍から電源船が急遽派遣されるなど、南側地域の電力不足は深刻な状況であった。これ以降、南北相互の電力融通は一切できなくなっていたが、2003年6月より造成の始まった開城工業地区向けに限定した運用であるが、南側から10万キロワットの送電線を新規に敷設し韓国から北朝鮮への送電が再開された。
通信

朝鮮半島の南北を結ぶ市外電話網の運用および保守は、国際電気通信(株)が行っていた。無装荷ケーブルにより接続された市外回線は、朝鮮半島の各所に市内回線接続のための中継所が設けられていた。中継所は釜山京城平壌といった大都市だけではなく、信号増幅のため一定距離ごとにも中継所があった。終戦直後の1945年8月26日未明、開城の北およそ60キロメートルほど離れた、現在の黄海北道平山郡にあった、同社管理の南川中継所に進駐したソビエト連邦軍が、市外回線ケーブルと局内装置間にある保安装置を撤去した。

現在では、開城工業地区と韓国を結ぶ電話回線が敷設されており、また南北間で特別な行事がある際は、平壌 - ソウル間の直通電話が臨時に設置される。
放送

ラジオ放送を社団法人朝鮮放送協会京城(現在のソウル)の京城中央放送局(呼出符号JODK)から平壌放送局(呼出符号JBBK)などの北側地域に中継放送していた。しかしながら1945年8月26日、進駐した赤軍により北緯38度線を境目に南北の放送用中継回線が切断され、南北の中継放送ができなくなった。なお、同日南北の市外電話回線も不通となっている。以降、分断が決定的になり北側地域の放送局は朝鮮中央放送(KCBS)、南側地域の放送局は韓国放送公社(KBS)へと再編されていった。

ラジオやテレビなどの地上放送については、スピルオーバーにより相手側の放送を一般住民が直接視聴できないよう、双方で妨害電波をかけられた。しかしテレビについては南北で放送方式に差異がある[注 1]ため一般に市販されている受像器だけでは視聴できない。

軍事境界線を挟んで1962年から2004年までは、大型で大出力の拡声器を相手側のエリアが見渡せる場所に設置した上で、プロパガンダや音楽を流す「拡声器放送」が南北相互に行なわれていた。この放送は南北の合意により一旦中止されたものの、南北関係の悪化により2016年1月、11年ぶりに拡声器放送が再開された。その後2018年4月に南北首脳会談開催に伴い再び中止され、翌5月までに双方の拡声器も撤去された。


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