軍事史
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馬の生産に携わり、その扱いにも長けた遊牧民の騎兵部隊は、古くから農耕社会の鈍重な歩兵部隊を翻弄したが、そうした戦力をある程度農耕社会の軍隊も保持できるようになった。そうすると逆に、鐙などの新技術は遊牧民の世界にも逆輸入され、遊牧騎兵の戦闘技術をさらに向上させた。こうして中世においては農耕社会の国家においてすら騎兵が戦場の主役となったうえ、農耕社会と遊牧社会を統合する社会変動が引き起こされていった。

4世紀、遊牧民のフン族ゲルマン人の大移動を引き起こして西ローマ帝国の存立を脅かし、匈奴鮮卑中国の農耕社会に浸透して、後世の歴史家に胡族国家と呼ばれる、遊牧・農耕複合政権を打ち立てた。7世紀にはやはり遊牧民をその重要な構成要素とし、それに都市民や農民も交えたアラブ人が、イスラム教のもと結束を成し遂げ、中近東の広大な地域を征服した。こうした騎兵を主体とする勢力に対抗するため、東ローマ帝国の軍隊の中核は重装歩兵から重装騎兵カタフラクト)へと移り、胡族国家の系譜を引くといった中華王朝の軍隊も、騎兵主体の軍勢を中核としていた。

農耕社会であった中世の西ヨーロッパにおいて重装騎兵を務めるためには、優れた技量と精神的・肉体的な鍛錬、そして馬を養うだけの経済力が必要であった。遊牧民は幼少時から牧畜という生産活動に従事してこれを学びつつ、優秀な騎兵となる技量を身につけるが、農耕社会において一般庶民の生産活動は、騎兵の技術を身につける生活とは著しく乖離しているからである。そのため、特別に幼少時からの特殊訓練と、それを保障する財産を与えられた階級が養成され、騎士階級が誕生した。日本武士もこれに似た面がある。

騎兵を戦略的・戦術的に最大限に活用したのがモンゴル帝国であった。モンゴル人の兵士は家畜の群れと共に数千キロを移動し、戦場では数頭の馬を用意して、1頭が疲れたり傷つけば馬を替えて戦い続けることができた。こうした戦術自体は伝統的な中央ユーラシアの遊牧民のものであったが、チンギス・ハーンは旧来の部族組織を解体し、自らの直属の家臣団のもとに全遊牧組織を再編成して優れて戦略的に遊牧軍団を展開することを可能にした。モンゴル人はチンギス・ハーン家のもと、13世紀に史上最大の帝国を作り上げた。

ただし中世における騎兵は無敵であったわけではない。トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)の例に見られるように騎兵のみでは歩兵の方陣密集隊形を突き崩すことはできなかったし、百年戦争(1337年 - 1453年)中のクレシーの戦い(1346年)では、イギリス軍のロングボウ部隊によってフランス軍の騎士たちは一方的に射殺されている。また近年の研究では、中世の戦場における歩兵の重要性が再評価されている。
近世ネイズビーの戦い(1645年)当時の歩兵(再現)

近世以降は火器の発達が著しい時代であった。火薬を発明したのは中国人であり、代には火器が使用されたという記録が残っている。だが、火器を最初に戦場で大量に使用したのはユーラシア大陸西方のヨーロッパ人諸国家、イスラム世界のオスマン帝国ムガル帝国であった。火器の登場は戦争の様相を、そして諸民族の運命と世界史の流れを大きく変えた。ユーラシア西方社会における火器の大量使用は、東ヨーロッパにおけるフス戦争1419年 - 1436年)におけるフス派の戦術をもってその嚆矢とする。

大砲はオスマン帝国によるコンスタンティノープル攻略(1453年)で初めて本格的に使用された。当時のウルバン砲は1日に数回発射するのがやっとというものであったが、その後改良され、イタリア戦争(1521年 - 1544年)では中世式の石積みの背の高い城壁を破壊した。これ以降、城壁は背が低く厚みのある土塁へと変化していった。一方で防御側としても、同時期に登場したの威力を活用し、攻め寄せてくる敵に十字砲火を浴びせられるよう、城壁から外向きに突き出した稜堡が築かれるようになった。また、城壁そのものも切り立った石壁によって敵兵の登攀を妨げる様式から、当時の非炸裂式の大砲弾が進軍する歩兵密集隊をなぎ倒しやすいように、外面が緩やかな斜面として設計されるようになった。こうして稜堡式城郭が発達していった。チャルディラーンの戦い

百年戦争の時代に原型が存在したが、まずオスマン帝国のイエニチェリで大規模に採用された。オスマン帝国では当時最も有力な騎馬戦力のひとつであったテュルク系の遊牧民騎兵を、1473年のバシュケントの戦いと、1514年チャルディラーンの戦いにてイエニチェリの小銃射撃で大いに破り、西アジアから東ヨーロッパにかけて覇権を築いた。次いでオスマン帝国と同じイスラム世界では、ムガル帝国を起こしたバーブルが銃を本格的に採用している。バーブルは1526年にはパーニーパットの戦いで銃を多用し、インド北部を支配するローディー朝戦象を多数擁する軍勢を破り、インド支配の端緒を築いた。

西ヨーロッパで初めて本格的に使用されたのはパヴィアの戦い(1525年)である。この戦いで、スペイン軍の1,500挺のアルクビューズ(火縄銃)の前に、騎士を主力とする2万のフランス軍は大敗した。日本での長篠の戦い(1575年)も同様の展開となったとされるが、この戦闘における騎兵の役割に関しては議論がある。また、日本における銃の運用は、弾幕重視の大陸系小銃運用術と異なる狙撃重視のものであったとする指摘もあり、今後の比較研究が待たれる。以降、西ヨーロッパでは騎兵の突撃は銃の弾幕射撃によって封殺させられ、軍隊の編制は歩兵を主軸として騎兵と砲兵が支援するという三兵戦術が主流となった。


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