軌間
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カナダでは、1851年に5フィート6インチを標準とする法律が制定された[20]が、1870年に廃止され、アメリカ合衆国との直通の必要から4フィート8 1/2インチに改軌された[21][22]

英領インドでは、最初のカルカッタ周辺は4フィート8 1/2インチ軌間で始まったが、1851年以降ダルハウジー侯爵ジェイムズ・ラムゼイ総督により5フィート6インチ軌間が標準とされた。ダルハウジーはイギリスの経験から最初に軌間などの規格を統一しておくことが重要であると考えていたが、インドはイギリス本土と直通するわけではないので独自に最良を選ぶべきだとして4フィート8 1/2インチがイギリスで統一されたのは「あくまで一地方の状況から偶然できたもので鉄道のベストとは限らない」としたが、ブルネルの7フィート1/4インチも大きすぎると考えたのか「この間に最良のものがある」と自身は6フィートを主張した(連続急勾配対策やハリケーン対策などの意味があったとも言われる)が4フィート8 1/2インチ組と話し合った結果5フィート6インチでまとまった[23][24][14]

オーストラリアでは後の各州に相当する各植民地が独自に鉄道建設を行なった結果、最初(1850年)のサウスオーストラリア州は4フィート8 1/2インチ、次(1852年)にニューサウスウェールズ州はアイルランド式の5フィート3インチでビクトリア州と前述のサウスオーストラリア州もこれに合わせ改軌。しかしニューサウスウェールズの技師長がアイルランド人からスコットランド人に変わると今度は4フィート8 1/2インチになる(ビクトリア・サウスオーストラリアは変更せず)など混乱が続き、1870年代の狭軌ブームの時代もあって1067 mmの州も加わるなど、州ごとにゲージが分断されたまま発展が続いて現在に至っている[25][14]

ラテンアメリカ各地の鉄道の軌間は建設の始まった時期により異なり、1837年から1851年までの6例ではすべて1435 mm軌間、1854年から1863年までの6例はすべて広軌である。1865年にウルグアイが1435 mm軌間を採用したのを挟んで、以後はもっぱら狭軌となる[26]
狭軌鉄道の流行フェステニオグ鉄道(1900年頃)

馬車由来の軌間より意図的に狭い軌間を使った初期の例としては、1836年開業のウェールズフェステニオグ鉄道の1フィート11 1/2インチ(597 mm)がある[27]。ただし当時はこうした狭軌鉄道では蒸気機関車を用いることはできなかった。

1860年ごろからは、狭軌でも実用的な蒸気機関車が製造可能になった[28]ノルウェーカール・アブラハム・ピルは、同国西部での鉄道の建設にあたり、3フィート6インチ(1067 mm)軌間がコストと能力のバランスのとれた理想的な軌間であるとした[29]。ピルはイギリスで技術教育を受けており、その見解はチャールズ・フォックス(英語版)をはじめとするイギリスの技術者たちにも支持された[27]。さらに1865年ごろからは、フェステニオグ鉄道の技術者チャールズ・イーストン・スプーナー(英語版)やイギリス商務省のヘンリー・タイラーらによって、3フィート(914 mm)や2フィート6インチ(762 mm)の軽便鉄道のアイデアが提唱された。スプーナーらは、従来の標準軌や広軌の鉄道は無駄が多く、狭軌の軽便鉄道こそが将来の鉄道にふさわしいと主張した[30]

1860年代後半から1880年代にかけては、フォックスやその影響を受けたイギリス人を中心とする技術者の指導により、アジアアフリカラテンアメリカなどの鉄道未開業地域において1067 mmや1000 mm、914 mmなどの軌間での鉄道建設が相次いだ[31]。1872年に開業した日本の鉄道が1067 mm軌間を採用したのもその一例である[32]。またケープ植民地南アフリカ)やニュージーランドでは、一旦標準軌での鉄道建設が始まっていたものが、狭軌に切り替えられている[33][34]タイインドネシアでは、先行していた標準軌鉄道とは別に狭軌の鉄道が建設され、その後長い時間をかけて狭軌に統一された[35][36]

インドとオーストラリアでは、すでに広軌や標準軌の鉄道網がある程度発達していたにもかかわらず、狭軌の鉄道も並行して建設されるようになった[37][38]。このため複数の軌間が混在する状況が生じ、21世紀に至っても完全には解消されていない[39][40]

すでに標準軌の普及していたヨーロッパや北アメリカでも、標準軌路線を作るほどの需要のない地域での軽便鉄道の規格として狭軌は広く用いられた[31]デンバー・アンド・リオグランデ鉄道の狭軌車両

アメリカ合衆国では、1871年に3フィート軌間のデンバー・アンド・リオグランデ鉄道の最初の区間が開通した[41]。1872年には第1回全米狭軌鉄道会議(National Narrow-Gauge Railway Convention)が開催され、3フィート軌間がアメリカにおける狭軌の統一規格として合意されるとともに、標準軌鉄道に代わって狭軌の幹線鉄道網を築くという野心的な計画も示された[42]

しかし、狭軌鉄道がある程度普及してくると、狭軌は従来主張されていたほど経済的ではないことが明らかとなった。オーストラリア・クイーンズランド植民地の鉄道の建設費は当初予算を40 %も超過した[38]。またアメリカ合衆国の狭軌鉄道会社でも、1880年代には標準軌鉄道との積み換えを避けるための改軌が相次いだ[43]。アメリカ合衆国のアーサー・M・ウェリントン(英語版)は1887年の著書で、狭軌鉄道の利点とされていた建設費の安さや曲線通過性能は、実際には軌間にほとんど依存せず、ランニングコストはかえって高くなってしまうと述べた。狭軌を使う意味のあるのは、車体サイズなどを小さくした低規格の軽便鉄道の場合に限られる。しかしウェリントンやその支持者たちの主張では、建設段階では需要の少ない路線であっても、狭軌ではなく標準軌で建設したほうが、将来の改良で本線鉄道網の一部とすることが容易であるため好ましいとしている[44]

アメリカ合衆国やイギリスではこの主張が比較的早く受け入れられたが、大陸ヨーロッパにおいては20世紀前半においても狭軌の軽便鉄道の建設が続いた[44]。しかし自動車が普及してくると、速度や輸送力の劣る軽便鉄道は競争力を失い、多くが廃止に追い込まれた[45]
20世紀以降の傾向

20世紀に入ってからは、新たに鉄道の軌間を選択する機会そのものが稀になったこともあり、軌間の優劣に関する議論は低調になった[46]。20世紀初めごろには日本日本の改軌論争)や南アフリカオーストラリアアメリカ合衆国などで、狭軌鉄道を標準軌に[注釈 3]、あるいは標準軌を広軌に[注釈 4]改軌すべきであるという議論が起こったが、オーストラリアのいくつかの狭軌鉄道が標準軌に改軌された例を除いて、いずれも実現には至っていない[47]ナチス・ドイツでは軌間3000 mmの超広軌鉄道「ブライトシュプールバーン」が計画されていた[48]

20世紀後半以降に新たに建設された鉄道では、標準軌が採用される例が多い。日本の新幹線や多数の製鉄所構内鉄道が、狭軌の在来線網とは独立した形で標準軌を選んだのがその最たるものである。またアフリカ各国やブラジル、オーストラリアでは、従来の狭軌鉄道とは別に、鉱山用や通勤用に標準軌で鉄道を新設した例がある。逆にスペインなどは在来線は広軌だが、高速列車のAVEはフランスなどとの接続を考えて、また通勤用の鉄道は車両限界をなるべく小さくして建設費用や車両新製費用を抑えるために、いずれも狭い標準軌で施設されている。こうした選択は、既に存在する技術を活用でき、車両や資材の調達もしやすいことによるものである[49]
軌間の広狭による性質


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