軌間
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1846年に制定された軌間法により、グレートブリテン島の新規路線は原則として4フィート8 1/2インチの軌間で建設されることになった[11]

この規定はスコットランド(5フィート6インチ軌間の「アブローズ?フォーファー」の路線が先行して施設されていた)にも適用され、安全上などの理由で広軌を求める声もあったが陸続きである以上4フィート8.5インチ軌間を受け入れることになった。ただし、アイルランドの鉄道は、グレートブリテン島とは海で隔てられているため共通の軌間を用いる必要はないとして、5フィート3インチ(1600 mm)が標準とされた[16]。(時系列的に少々戻るがアイルランドは1834年に軌間4フィート8 1/2インチで最初の鉄道が施設、その後ダブリンとベルファスト間で本格的に施設する際もっと広軌にするべきだと6フィート2インチか5フィート2インチかで揉めて最終的に5フィート3インチで妥協され、1846年の軌間法で追認された[14]。)
標準軌と広軌の普及

大陸ヨーロッパではイギリスと比べ鉄道の建設や運営に政府の関与が強く、軌間の選択に関しても最初に政府が決定した例が多い[17]。このとき最も多く選ばれたのはスティーヴンソンの1435 mm軌間であるが、オランダバーデン大公国ロシア帝国スペインポルトガルの各国ではそれぞれ広軌(5?6フィート前後)が採用された。これは広軌のほうが技術的には優れているという見解に基づくものであった。オランダとバーデンでは後に周辺国に合わせて1435 mmに改軌したが、ロシアとイベリア半島の軌間はそのまま現代に至っている[18][14]

アメリカ合衆国では、1830年代から40年代にかけて、民間の鉄道会社により多くの鉄道が開業した。これらの鉄道は、港と内陸を結ぶことが主目的で相互の接続が軽視されたこともあり、4フィート8 1/2インチの他にも様々な広軌が採用された。これが1860年代頃までには、北東部では4フィート8.5インチ、南部では5フィート、ニュージャージー州オハイオ州では4フィート10インチのように地域的に統合され、さらに1863年に大陸横断鉄道の軌間が4フィート8 1/2インチとされたことがきっかけとなって、全国的に4フィート8 1/2インチに統一された[19]

カナダでは、1851年に5フィート6インチを標準とする法律が制定された[20]が、1870年に廃止され、アメリカ合衆国との直通の必要から4フィート8 1/2インチに改軌された[21][22]

英領インドでは、最初のカルカッタ周辺は4フィート8 1/2インチ軌間で始まったが、1851年以降ダルハウジー侯爵ジェイムズ・ラムゼイ総督により5フィート6インチ軌間が標準とされた。ダルハウジーはイギリスの経験から最初に軌間などの規格を統一しておくことが重要であると考えていたが、インドはイギリス本土と直通するわけではないので独自に最良を選ぶべきだとして4フィート8 1/2インチがイギリスで統一されたのは「あくまで一地方の状況から偶然できたもので鉄道のベストとは限らない」としたが、ブルネルの7フィート1/4インチも大きすぎると考えたのか「この間に最良のものがある」と自身は6フィートを主張した(連続急勾配対策やハリケーン対策などの意味があったとも言われる)が4フィート8 1/2インチ組と話し合った結果5フィート6インチでまとまった[23][24][14]

オーストラリアでは後の各州に相当する各植民地が独自に鉄道建設を行なった結果、最初(1850年)のサウスオーストラリア州は4フィート8 1/2インチ、次(1852年)にニューサウスウェールズ州はアイルランド式の5フィート3インチでビクトリア州と前述のサウスオーストラリア州もこれに合わせ改軌。しかしニューサウスウェールズの技師長がアイルランド人からスコットランド人に変わると今度は4フィート8 1/2インチになる(ビクトリア・サウスオーストラリアは変更せず)など混乱が続き、1870年代の狭軌ブームの時代もあって1067 mmの州も加わるなど、州ごとにゲージが分断されたまま発展が続いて現在に至っている[25][14]

ラテンアメリカ各地の鉄道の軌間は建設の始まった時期により異なり、1837年から1851年までの6例ではすべて1435 mm軌間、1854年から1863年までの6例はすべて広軌である。1865年にウルグアイが1435 mm軌間を採用したのを挟んで、以後はもっぱら狭軌となる[26]
狭軌鉄道の流行フェステニオグ鉄道(1900年頃)

馬車由来の軌間より意図的に狭い軌間を使った初期の例としては、1836年開業のウェールズフェステニオグ鉄道の1フィート11 1/2インチ(597 mm)がある[27]。ただし当時はこうした狭軌鉄道では蒸気機関車を用いることはできなかった。

1860年ごろからは、狭軌でも実用的な蒸気機関車が製造可能になった[28]ノルウェーカール・アブラハム・ピルは、同国西部での鉄道の建設にあたり、3フィート6インチ(1067 mm)軌間がコストと能力のバランスのとれた理想的な軌間であるとした[29]。ピルはイギリスで技術教育を受けており、その見解はチャールズ・フォックス(英語版)をはじめとするイギリスの技術者たちにも支持された[27]。さらに1865年ごろからは、フェステニオグ鉄道の技術者チャールズ・イーストン・スプーナー(英語版)やイギリス商務省のヘンリー・タイラーらによって、3フィート(914 mm)や2フィート6インチ(762 mm)の軽便鉄道のアイデアが提唱された。スプーナーらは、従来の標準軌や広軌の鉄道は無駄が多く、狭軌の軽便鉄道こそが将来の鉄道にふさわしいと主張した[30]

1860年代後半から1880年代にかけては、フォックスやその影響を受けたイギリス人を中心とする技術者の指導により、アジアアフリカラテンアメリカなどの鉄道未開業地域において1067 mmや1000 mm、914 mmなどの軌間での鉄道建設が相次いだ[31]。1872年に開業した日本の鉄道が1067 mm軌間を採用したのもその一例である[32]。またケープ植民地南アフリカ)やニュージーランドでは、一旦標準軌での鉄道建設が始まっていたものが、狭軌に切り替えられている[33][34]タイインドネシアでは、先行していた標準軌鉄道とは別に狭軌の鉄道が建設され、その後長い時間をかけて狭軌に統一された[35][36]

インドとオーストラリアでは、すでに広軌や標準軌の鉄道網がある程度発達していたにもかかわらず、狭軌の鉄道も並行して建設されるようになった[37][38]。このため複数の軌間が混在する状況が生じ、21世紀に至っても完全には解消されていない[39][40]

すでに標準軌の普及していたヨーロッパや北アメリカでも、標準軌路線を作るほどの需要のない地域での軽便鉄道の規格として狭軌は広く用いられた[31]デンバー・アンド・リオグランデ鉄道の狭軌車両

アメリカ合衆国では、1871年に3フィート軌間のデンバー・アンド・リオグランデ鉄道の最初の区間が開通した[41]。1872年には第1回全米狭軌鉄道会議(National Narrow-Gauge Railway Convention)が開催され、3フィート軌間がアメリカにおける狭軌の統一規格として合意されるとともに、標準軌鉄道に代わって狭軌の幹線鉄道網を築くという野心的な計画も示された[42]

しかし、狭軌鉄道がある程度普及してくると、狭軌は従来主張されていたほど経済的ではないことが明らかとなった。オーストラリア・クイーンズランド植民地の鉄道の建設費は当初予算を40 %も超過した[38]。またアメリカ合衆国の狭軌鉄道会社でも、1880年代には標準軌鉄道との積み換えを避けるための改軌が相次いだ[43]。アメリカ合衆国のアーサー・M・ウェリントン(英語版)は1887年の著書で、狭軌鉄道の利点とされていた建設費の安さや曲線通過性能は、実際には軌間にほとんど依存せず、ランニングコストはかえって高くなってしまうと述べた。


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