軌間
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曲線部では、車輪のすべてが、曲線の中心を向くことができないのと、車輪のフランジが軌条に接触することなく走行できるようにするため、内側の軌条を曲心側に若干広げて、軌条の間隔を所定の軌間より広げて車輪を円滑に走行できるようにしており、この拡幅をスラック(拡度)と呼んでいる。曲線半径が600 m以下の場合において設けられるが、その設定幅は曲線半径、台車の固定軸距、軌間などの数値や実験値等から計算され、曲線半径のランクにより5 mm刻みに設定されており、大きな値をとってしまうと脱線の危険が生まれてしまうため、最大値で30 mmとしている。また、曲線半径が600 m以上においても2 mm以下のスラックが設けられる場合がある[2]
定義 軌間

軌間の正確な定義には、レールの頭部上面から一定の長さだけ下がった位置での左右のレール内側面の距離とするものと、上面から一定の範囲内でのレール内面の最短距離とするものがあり、国や地域などによって若干の差異がある[3]

日本 - レール上面から鉛直方向に16 mm以内の最短内面距離[1]

アメリカ合衆国(アメリカ鉄道技術協会) - レール上面から15.875 mm(5/8インチ)下がった位置での内面距離[3]

スペイン - レール上面から14.5 mm(±5 mm)下の位置での内面距離[4]

19世紀後半のフランスイタリアでは、レール中心の間隔を基準として定めていた。この場合軌間はレールの幅によって変わってしまうことになる[5][6]
歴史
標準軌の起源とゲージ戦争キリングワースの機関車

現代において標準軌とされる4フィート8.5インチ軌間の起源は、イングランド北東部のキリングワース(英語版)炭鉱の馬車鉄道で用いられていた4フィート8インチ軌間である[1]。なおキリングワースの車輪間隔の起源をさらに古代ローマの馬車にまで遡ることができるとする説[7]もあったが後に否定されている[8]1814年ジョージ・スティーヴンソンがこの炭鉱鉄道のために蒸気機関車を製造した[9]。スティーブンソンはその後他の炭鉱向けにも機関車を製造し、1823年にはロバート・スチーブンソン・アンド・カンパニーを設立したが、ここで製造された機関車も同じ軌間で設計されていた。スティーブンソンは、各地の鉄道で同じ軌間を使ったほうが機関車や諸設備の量産に都合がよく、また将来これらの鉄道が相互に接続された時にも便利であると考えていた[10]1825年ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道で公共用の鉄道として初めて蒸気機関車が使われ、1830年には世界初の蒸気機関車による旅客用鉄道であるリバプール・アンド・マンチェスター鉄道が開業した。これらの鉄道でもスティーブンソンの機関車が用いられた[9]。ただし、軌間はこの途中のいずれかの段階で半インチ拡大されて4フィート8.5インチとなっている[9]

その後もスティーヴンソンらの関わった鉄道では4フィート8 1/2インチ軌間が採用されたが、蒸気機関車を用いた鉄道で馬車由来の軌間を用いる必然性はなく、より広い軌間のほうがよいと考える技術者も多かった。代表的な例がイザムバード・キングダム・ブルネルであり、グレート・ウェスタン鉄道において7フィート1/4インチ(2140 mm)という広軌を採用した[11]。ブルネルは、グレート・ウェスタン鉄道がスティーヴンソンの4フィート8 1/2インチ軌間の鉄道と接続する必要はないとして、異なる軌間でも特に問題はないと考えていた[12]。ブルネルほど極端ではないにしろ、1830年代から40年代には5フィートから6フィート程度の様々な広軌鉄道が現れており、イングランドでもグレート・ウェスタン鉄道に追従して1836年にイースタンカウンティー鉄道が7フィート1/4インチ軌間にしようと試みたが技師長のブレイスウェスト[注釈 2]によって5フィート軌間を勧められどちらとも違う軌間を始めた(後に標準軌に改軌)[13][14]グロスターでの乗り換えを風刺した絵

ただし、こうした異なる軌間が路線を拡大した結果1844年グロスターにおいて4フィート8 1/2インチ軌間と7フィート1/4インチ軌間の鉄道ははじめて接し、これにより軌間が異なると直通運転ができないという弊害が顕在化した[15]。軌間をどちらに統一すべきかは「ゲージ戦争(Battle of the gauges)」と呼ばれる激しい論争となった。1845年、王立委員会は広軌の技術的な優位は認めつつ、その差はわずかであり[11]、路線長の長い4フィート8 1/2インチ軌間に統一するのが好ましいと勧告した。翌1846年に制定された軌間法により、グレートブリテン島の新規路線は原則として4フィート8 1/2インチの軌間で建設されることになった[11]

この規定はスコットランド(5フィート6インチ軌間の「アブローズ?フォーファー」の路線が先行して施設されていた)にも適用され、安全上などの理由で広軌を求める声もあったが陸続きである以上4フィート8.5インチ軌間を受け入れることになった。ただし、アイルランドの鉄道は、グレートブリテン島とは海で隔てられているため共通の軌間を用いる必要はないとして、5フィート3インチ(1600 mm)が標準とされた[16]。(時系列的に少々戻るがアイルランドは1834年に軌間4フィート8 1/2インチで最初の鉄道が施設、その後ダブリンとベルファスト間で本格的に施設する際もっと広軌にするべきだと6フィート2インチか5フィート2インチかで揉めて最終的に5フィート3インチで妥協され、1846年の軌間法で追認された[14]。)
標準軌と広軌の普及

大陸ヨーロッパではイギリスと比べ鉄道の建設や運営に政府の関与が強く、軌間の選択に関しても最初に政府が決定した例が多い[17]。このとき最も多く選ばれたのはスティーヴンソンの1435 mm軌間であるが、オランダバーデン大公国ロシア帝国スペインポルトガルの各国ではそれぞれ広軌(5?6フィート前後)が採用された。これは広軌のほうが技術的には優れているという見解に基づくものであった。オランダとバーデンでは後に周辺国に合わせて1435 mmに改軌したが、ロシアとイベリア半島の軌間はそのまま現代に至っている[18][14]

アメリカ合衆国では、1830年代から40年代にかけて、民間の鉄道会社により多くの鉄道が開業した。これらの鉄道は、港と内陸を結ぶことが主目的で相互の接続が軽視されたこともあり、4フィート8 1/2インチの他にも様々な広軌が採用された。これが1860年代頃までには、北東部では4フィート8.5インチ、南部では5フィート、ニュージャージー州オハイオ州では4フィート10インチのように地域的に統合され、さらに1863年に大陸横断鉄道の軌間が4フィート8 1/2インチとされたことがきっかけとなって、全国的に4フィート8 1/2インチに統一された[19]

カナダでは、1851年に5フィート6インチを標準とする法律が制定された[20]が、1870年に廃止され、アメリカ合衆国との直通の必要から4フィート8 1/2インチに改軌された[21][22]

英領インドでは、最初のカルカッタ周辺は4フィート8 1/2インチ軌間で始まったが、1851年以降ダルハウジー侯爵ジェイムズ・ラムゼイ総督により5フィート6インチ軌間が標準とされた。ダルハウジーはイギリスの経験から最初に軌間などの規格を統一しておくことが重要であると考えていたが、インドはイギリス本土と直通するわけではないので独自に最良を選ぶべきだとして4フィート8 1/2インチがイギリスで統一されたのは「あくまで一地方の状況から偶然できたもので鉄道のベストとは限らない」としたが、ブルネルの7フィート1/4インチも大きすぎると考えたのか「この間に最良のものがある」と自身は6フィートを主張した(連続急勾配対策やハリケーン対策などの意味があったとも言われる)が4フィート8 1/2インチ組と話し合った結果5フィート6インチでまとまった[23][24][14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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