また、足軽を帰農させ軽格の「郷士」として苗字帯刀を許し、国境・辺境警備に当たらせることもあった(在郷足軽)。こうした例に熊本藩の「地筒・郡筒(じづつ・こうりづつ)」の鉄砲隊があり、これは無給に等しい名誉職であった。実際、鉄砲隊とは名ばかりで、地役人や臨時の江戸詰め藩卒として動員されたりした。逆に、好奇心旺盛な郷士の子弟は、それらの制度を利用して、見聞を広めるために江戸詰め足軽に志願することもあった。
江戸時代においては、「押足軽」と称する、中間・小者を指揮する役目の足軽もおり、「江戸学の祖」と云われた三田村鳶魚は、「足軽は兵卒だが、まず今日の下士か上等兵ぐらいな位置にいる[17]。役目としても、軍曹あたりの勤務をも担当していた」と述べているように[18]、準武士としての位置づけがなされた例もあるが[19]、基本的に足軽は、武家奉公人として中間・小者と同列に見られる例も多かった。[要出典]諸藩の分限帳には、足軽や中間の人名や禄高の記入はなくて、ただ人数だけが記入されているものが多い。或いはそれさえないものがある。足軽は中間と区別されないで、苗字を名乗ることも許されず、百姓や町人と同じ扱いをされた藩もあった。長州藩においては死罪相当の罪を犯した際に切腹が許されず、磔にされると定められており、犯罪行為の処罰についても武士とは区別されていた。 幕末になって江戸幕府及び諸藩は、火縄銃装備の「鉄砲組」を廃止し、洋式銃装備の「歩兵隊」や「銃隊」を作る必要に迫られたが、従来の足軽隊は既に整理され事実上消滅し、残りも最低定員で末端役人や治安警備担当に振り分けられていたため、新たに人員を募集し戦国時代の足軽隊に似た歩兵部隊を創設した。しかしこれらの身分は足軽より下の中間(ちゅうげん)小者待遇とされた。 明治に至り廃藩置県等の体制の変革により、同心・足軽等一部は邏卒・兵卒・下士官・末端役人として引き続き出仕した。その後、旧武士は士分であったものは「士族」に、足軽身分であったものは「卒族」に分類された。その後、卒族が廃止されたのち卒族のうち上格の者は「士族」[注釈 13]その他の者は農工商と同じく「平民」と戸籍に記載されその表記制度は1948年(昭和23年)まで残された。 中世以降、近世の終わりまで一般大衆の動員は工兵・兵站といった後方任務に限られており、彼らの戦闘員としての動員は非常時にしか見られない。戦闘部隊としての戦国時代から江戸時代における足軽の動員は多様な階層からの徴募制が採られており、その召抱える条件も戦時における一時的なものや平時においても雇用され続ける者など様々な待遇が存在した。 この様な動員形態から足軽は傭兵というべき一面も存在する。しかし上述の様に足軽の中には常時雇用される者もおり、そうした者達は実質的には何代も同じ主君に仕え、同時に武士の一員として遇されていた事から傭兵と封建兵の中間に位置する存在と言える。
幕末・明治時代
足軽の動員
備考
近世足軽は大小の二刀を帯し、羽織を着られたが、中間は紺看板に梵天帯、刀一本という拵えであった[20]。中間は二両二分を与えられ、部屋に合宿していたのに対し、足軽は(三両二分から五両二分、脚注を参照)長屋に住居した[21]。また、足軽は苗字を許されていたが、中間は名字も帯刀も許されていない[22]。
武家奉公人の中で最下級は小者であり、中間・小者は共に軍役の員外である[23]。それに対し、足軽は軍役の人数に数えられた正式な戦闘員である(中間の戦場の役目として、馬印や盾持ちなどなど)[21]。
各藩には、「長柄の者」(三間長柄の槍を持たせ、太平の世では勤務内容が足軽と同じ)と称する卒族があり、準足軽的存在であった[21]。中間・小者は一季半季の雇人だが、長柄の者は終身、あるいは子孫と譜代にも召し使われた[21]。
足軽は「大名行列」に参列したが、「代官行列
戦国期の鉄砲足軽の実力を示す逸話として、『土佐物語』巻第十七には、長宗我部元親の家臣の足軽・俵兵衛が命を受け、魚をくわえて沖へ飛び立つカモメを射殺した。その距離、58間=約105m。この功績から俵兵衛は、那須与一の逸話とも勝劣あるべからずと評され、羽織を賜り、士分を与えられ、太刀一腰も賜った。
ギャラリー
腹当(はらあて)
笠(かさ)
頭形兜(冑、かぶと)
カルタ金(カルタずきん)
カルタたたみどう
亀甲たたみどう
陣笠(じんがさ)
陣笠(じんがさ)
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 『平家物語』(13世紀成立)巻四に、「足軽共4、500人先立て」とあり、平安末期である源平合戦期にも見られる。