足利義輝
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義藤はその直後より、将軍としての活動を開始した[17]

天文16年正月、細川氏綱の有力武将で京都を任せられていた細川国慶が、公家らから地子銭を横領し、被害にあった公家らが怒ったために騒動が起きた[17]。11日に騒動は収まったかのように見えたが、義藤は国慶を将軍の「御敵」とし、「成敗すべし」との号令を下した[17]。国慶は義藤に謝罪したが、義藤はこれを許さず、窮した国慶は京の郊外・高雄に出奔した[17]

正月26日、義藤は父・義晴とともに内裏に参内して、後奈良天皇に拝謁し、賀事を献じた[16][18][19]。その際、義藤は六角氏の兵3千を率いて洛中を行進し、その武威を示した[18]
細川晴元との戦い

父・義晴は没落気味であった細川晴元と決別し、細川氏綱と手を結んだが、晴元も黙ってはいなかった[20]。晴元は報復として、阿波で庇護していた義晴の兄弟・足利義維を擁立した[20]。晴元は義晴を決別するまで支援しつつも、一方で義維を庇護するという、「ねじれた関係」を持っていた[21]

だが、この事態は六角定頼を悩ませた。定頼にとって、義晴は晴元とともにそれまで支えてきた同志であり、義藤もまた自身が烏帽子親を務めた人物だった[22]。一方の晴元もまた、自身の娘婿であり、近しい存在であった[21]。もし、定頼が晴元に味方すれば、それは義藤の将軍としての権威を否定し、義維を将軍として認めることに繋がった[22]

そのため、定頼は義晴・義藤父子と晴元を和解させようとした。その一環として、大坂の石山本願寺に嫁ぐことが内定していた晴元の娘を、義藤の御台所にしようと画策した[23][24]。だがこの話は強引すぎたため、うまくいかなかった[23]。その間にも、義晴・義藤と晴元の関係が悪化し、晴元は各地で氏綱派を打ち負かし、京へと迫った[25]

3月29日、義藤と義晴は身の危険を感じ、北白川に建設していた将軍山城へ逃げ、ここに籠城した[24][25][26]。そして、晴元との対決姿勢を鮮明にしたため、定頼は両者の板挟みになって窮した[25]

7月12日、義藤と義晴の籠城する将軍山城は、定頼と晴元の大軍に包囲された[25]。定頼は父子に対して、晴元との和解を強いた[24][25]。定頼の背反により、父子は為す術を失い、全面的にその要求を受け入れざるを得なくなった[25][27]

7月19日、義藤と義晴は将軍山城に火を放ち、城を出て近江坂本に向かった[27][28]。だが、29日に定頼の仲介のもと、晴元と坂本で和睦した[27][28]。このとき、義藤は晴元と面会したが、義晴は晴元と面会しなかった[28]。他方、この和解により、晴元の支援していた足利義維は立場がなくなり、同年12月に堺から四国へと戻った[29]

天文17年4月、定頼は大和に入り、氏綱派の遊佐長教と面会し、晴元派と氏綱派の和解を取り付けた[28]。これにより、細川一門の騒擾は収まり、畿内の政情も安定した[28]。そのため、6月17日に義藤と義晴は坂本から京へと戻り、今出川御所に入った[14][28]
三好長慶との戦い三好長慶像(聚光院所蔵)

ところが、細川晴元の家臣で、畿内に一大勢力を築きつつあった三好氏の当主・三好長慶が晴元を裏切って、細川氏綱の陣営に転属した[30]。その理由としては、晴元が同族の三好政長を重用し、長慶を討伐しようとしたため、主君によって「逆臣」とされてしまったことにあった[30]


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