足利義稙
[Wikipedia|▼Menu]
明応の政変「明応の政変」および「細川政権 (戦国時代)」も参照細川政元像(竜安寺蔵)

当初、政治の実権を握り「大御所」と称した父・義視が延徳3年(1491年)1月に死去した後は、前管領・畠山政長と協調して独自の権力の確立を企図する。しかし擁立の功労者であった富子や、もともと清晃支持派である細川政元(一時管領となったがすぐに辞任)とは対立を生じることになった。同年8月、義尚の遺志を継ぎ、政元の反対を押し切って六角高頼征伐を再開、みずから近江国に出陣して高頼の追放に成功している。明応2年(1493年)2月には、応仁の乱終結後も分裂状態が続いていた畠山氏で、畠山政長の対抗者・畠山義就が死去したのに乗じて、義就の後継者・義豊を討伐するため、またもや政元の反対を押し切って畠山政長らを率いて河内国に赴いた。

しかし義材が京都を留守にしている間に、京都に残っていた細川政元・日野富子・伊勢貞宗らは同年4月、清晃を11代将軍に擁立して、義材を廃する蜂起(明応の政変)を起こした。政元の蜂起の最大の原因は、義材が将軍就任時は政務は当時管領だった政元に任せると言いながら、成長すると自ら政務を行おうとしたこと、すなわち将軍と管領のどちらが幕政の主導権を握るかにあったとみられている[20]。京都では義材派の人々の粛清が行われて市中は騒然となり、自分が任命した将軍の廃立に怒った後土御門天皇は一時は抗議のため退位を表明し、その後も政変をなかなか承認せず、そのため清晃の征夷大将軍宣下は政変から8ヶ月以上経った12月27日に行われた。この事情のためか、『公卿補任』では、義材から義澄への将軍交代は後土御門天皇の死後に行われたことになっている(もっとも、政元側の献金不足によって朝廷の動きが鈍かっただけとする説もある[21])。政元は軍を河内国に派遣して義材と畠山政長を打ち破り、政長は自害した。義材は尊氏以来足利将軍家に伝わる家宝の甲冑「御小袖」と「御剣」だけを携えて政元の家臣・上原元秀の陣に投降し、京都に連れ戻されて龍安寺に幽閉された[22]。この時、富子の指示により義材が毒を盛られる事件が起きた。
諸国への下向、上洛「越中公方」および「永正の錯乱」も参照大内義興像(山口県立山口博物館蔵)

幽閉された義材は小豆島へ流されることを知り、明応2年(1493年)6月29日に側近らの手引きで京都を脱出して畠山政長の領国である越中国放生津に下向し[23]、政長の家臣・神保長誠を頼ったため越中公方(越中御所)と呼ばれた。この時の義材は単なる無力な逃亡者ではなく、越中国でそれなりの陣容を整えた政権を樹立していることから、後の足利義維の「堺幕府」や足利義昭の「鞆幕府」にならい「放生津幕府」などと呼ぶこともある。

明応7年(1498年)9月に義尹と改名した義材は、越前国朝倉貞景のもとへ移った。この行動をめぐっては、政元側との和睦を見込んだ上洛説、義澄追討のための西進説、長誠との不和に起因する越前没落説など、さまざまに取り沙汰されている。山田康弘は朝倉氏に義澄追討への協力を求めるため「みずから朝倉氏の本拠一乗谷におもむいて朝倉氏を説得しようと決意し」ての行動だったとしている[24]。一方、萩原大輔は越前に赴いた際の御供がわずか13人だったことなどを元に「義尹の越前動座は、武力上洛戦争のための西進ではなく、神保長誠らとの対立による越中退去、越前への没落と解釈すべき」としている[25]。その後、義尹は明応8年7月になって畠山政長の子・尚順と同調して軍事攻撃による上洛をめざすものの、この軍事作戦に朝倉貞景は従軍していない。一方、神保陣営は従軍していたことが『大乗院寺社雑事記』で裏付けられる[26]。戦いは延暦寺根来寺高野山の僧兵も義尹に呼応して一時は近江国まで迫ったが、坂本で六角高頼に敗れ、河内国に逃れたがここでも政元に敗れて、かつて大内家が応仁の乱で父・義視を奉じて西軍に属した縁を頼って周防国に逃れ、大内義興のもとに身を寄せた。畠山尚順も河内国を失って紀伊国に逃れた。

永正4年(1507年)に細川政元が暗殺されて政元の3人の養子の間で細川家が分裂状態(永正の錯乱)に陥ると、義尹は将軍への復帰の好機と見て、永正5年(1508年)4月に大内家の軍事力に支えられ[注釈 1]、細川家の後継者候補の内の細川高国らの勢力に迎えられて中国地方九州の諸大名とともに山口から、尾道、鞆を経て海路上洛しようとする[27]。同年4月、堺に到着[28]。同年6月、京都を占領して11代将軍・義澄や高国と対立していた管領・細川澄元を追放し、7月には将軍職に復帰した。
将軍職への復帰「両細川の乱」および「船岡山合戦」も参照細川高国東林寺蔵)

その後、義尹と義澄派は将軍職をめぐって抗争する。永正6年(1509年)10月には義澄に刺客を送られたが、義尹は自らこれを撃退した。永正8年(1511年)8月の船岡山合戦直前に義澄が病死し、さらにこの戦いにも義尹派が勝利したため、義尹の将軍職復帰が確定した。

だが、義尹の政権は管領となった細川高国や管領代と称された大内義興らの軍事力によって支えられていたため[注釈 2]、親裁志向の強い義尹としては、意のままにならないことも多く、永正5年(1508年)8月に行われた将軍復帰直後最初の御成先に畠山尚順の宿舎を選んだ(尚順を将軍復帰の最大の功労者と認定したことになる)ことで大内義興がこれに抗議するために宴会を途中で退席して高国もこれに同調し[30]、永正9年(1512年)3月に後柏原天皇が義尹の意向に反して大内義興を従三位に叙し[31]、永正10年(1513年)3月には細川・大内・畠山の諸氏と対立した義尹が一時京都を出奔して近江国甲賀郡に逃れた上、当地で病を発した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:71 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef