凡例足利 義満
足利義満像(鹿苑寺蔵)
時代室町時代前期
生誕延文3年8月22日(1358年9月25日)
死没応永15年5月6日(1408年5月31日)
改名春王(幼名)、義満、道有(法名)、道義(法名)
別名日本国王、室町殿
諡号恭献王[注釈 1][注釈 2][注釈 3][注釈 4][注釈 5][注釈 6][注釈 7][注釈 8][注釈 9][注釈 10][注釈 11][注釈 12]
戒名鹿苑院天山道義
墓所相国寺塔頭鹿苑院
官位従五位下・正五位下・左馬頭・征夷大将軍・従四位下・参議・左近衛中将・従三位・権大納言・右近衛大将、従二位、右馬寮御監、従一位、内大臣、左大臣、蔵人別当、後円融院別当、源氏長者、准三宮、淳和奨学両院別当、太政大臣
幕府室町幕府第3代征夷大将軍
在職:応安元年12月30日(1369年2月7日) - 応永元年12月17日(1395年1月8日)
氏族足利将軍家
父母父:足利義詮、母:紀良子
兄弟千寿王、義満、柏庭清祖、満詮、廷用宗器、宝鏡寺殿
妻正室:日野業子
継室:日野康子
側室:藤原慶子・春日局ほか
子尊満、義持、義嗣、義教、法尊、虎山永隆、大覚寺義昭、梶井義承ほか
特記
事項金閣寺建立
花押
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足利 義満(あしかが よしみつ)は、室町時代前期の室町幕府第3代征夷大将軍[1]。将軍職を辞した後、清和源氏で初の太政大臣。父は第2代将軍・足利義詮、母は側室・紀良子。祖父に足利尊氏。正式な姓名は源 義満(みなもと の よしみつ)。室町幕府第2代征夷大将軍・足利義詮の長男で足利満詮の同母兄にあたる。
南北朝合一を果たし、有力守護大名の勢力を抑えて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治・経済・文化の最盛期を築いた。
邸宅を北小路室町へ移したことにより義満は「室町殿」とも呼ばれた。後代には「室町殿」は足利将軍家当主の呼称となった。歴史用語の「室町幕府」や「室町時代」もこれに由来する。 延文3年(1358年)8月22日、義満は2代将軍・足利義詮の子として京都春日東洞院にある幕府政所執事の伊勢貞継の屋敷で生まれた。祖父である尊氏の死からちょうど100日目のことである。母の紀良子は石清水神官善法寺通清
生涯
幼少期
春王は長男ではなかったが、義詮と正室の渋川幸子との間に生まれていた千寿王は夭折しており、その後、幸子との間に子はなく、義満誕生の前年にも義詮と紀良子の間には男子(名前不明)が生まれていたが、義満は嫡男として扱われた[4]。幼児期は伊勢邸で養育された[5]。
春王が幼少の頃の幕府(北朝方)は南朝との抗争が続き、さらに足利氏の内紛である観応の擾乱以来、幕政を巡る争いは深刻さを増していた。康安元年(1361年)12月には細川清氏や楠木正儀、石塔頼房ら南朝方に京都を占領され、義詮は後光厳天皇を奉じて近江国に逃れた。春王は僅かな家臣に守られて建仁寺に逃れた後、北野義綱に護衛され、赤松則祐の居城の播磨白旗城への避難を余儀なくされた。この後、しばらくの間、春王は則祐により養育される[6]。幕府側はすぐに京都を奪還し、春王も京都への帰路につくがその道中、摂津国に泊まった際に景色が良いことを気に入り、「ここの景色は良いから京都に持って帰ろう。お前たちが担いで行け」という命令を出し、家臣らはその気宇壮大さに驚いたという[注釈 13]。京都に帰還した春王は、新しく管領となった斯波義将に養育され、貞治3年(1364年)3月には7歳で初めて乗馬した。
貞治4年(1365年)5月、春王は矢開の儀を行い、6月には七条の赤松則祐屋敷で祝儀として馬・鎧・太刀・弓矢等の贈物を受けるなど、養父である則祐とは親交を続けた。
貞治5年(1366年)8月、貞治の変が起こって斯波高経・義将父子が失脚すると、叔父の足利基氏の推挙により、細川頼之が後任の管領に任命された。