足利義満
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^ 新井白石読史余論』「同月、義嗣内裏にて元服、其儀親王に准ず。参議従三位たり。中将如元(于時十五歳)。五月、前征夷大将軍太政大臣従一位准三后義満入道道義薨(五十一)。太上天皇の尊号を贈らる(義持固辞して不受ともいふ)。十二月、大明成祖より義持に慰詔を賜ひ道義を吊ひ祭文を作り恭献王と諡す。」 ⇒[3]
^『南方紀伝』応永十八年(辛卯)「興福寺五重塔・金堂・大湯屋・新御願塔二基が落雷で焼失した。明国の成祖・永楽帝が書を義持に贈り、義満の死を弔慰し祭文を作り恭献王と諡した。」
^ 史書はこれを気宇壮大を表す事績として伝えるが、作家の海音寺潮五郎は「単なるわがまま」としている。
^ これを吉例として足利義教(義満の子、第6代将軍)の元服では管領畠山持国一門、その子・足利義政(義満の孫、第8代将軍)の元服では管領細川勝元一門が四役全てを占めて、幼少もしくは還俗直後の新将軍を管領一門が支えることをアピールする場としている。
^ なお、康暦の強訴の幕府の対応について、結果的には室町幕府の対権門寺院政策の転換点になったものの、本来は義満が参加する朝儀の無事に行われることのみを目的としたもので、幕府は積極的に強訴を解決しようとした訳ではなく興福寺をなだめて問題を先送りにする方針であったとする指摘もある[13]
^ この時最終案に残った「洪」のつく案は「洪徳」であったが、これまで永徳至徳明徳と「徳」の字がつく元号が連続しており、3回連続「治」のつく元号を用いた崇徳天皇や、4回連続「元」のつく元号を用いた後醍醐天皇の例と同じになり不吉とされた。ちなみにこの時案として後に用いられる寛永宝暦が提案されている。
^ この際に反対論を唱えたのは、一条経嗣らであったという[16]
^ 服部敏良は流行の風邪にかかり、それが悪化し急性肺炎のような症状で死去したであろうと推測している[26]
^ 現在では後小松天皇が100代目とされている。しかし当時は天皇の代数の数え方は必ずしも一致していなかった。現代では天皇とみなされる弘文天皇仲恭天皇の即位は一般には認められておらず(明治時代に同時に諡号を贈られた淳仁天皇は、即位に関しては不備はなく「47代 廃帝」として代数には含まれていた)、一方で神功皇后は即位したとされていた。当時は北朝が正統とされていたため、この数え方によると100代目は後円融天皇にあたる。

出典^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 34頁。
^ a b c d 「足利義満」『朝日 日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。 
^ a b c d 榎原 & 清水 2017, p. 80
^ 臼井 1989, p. 11.
^ 臼井信義『足利義満』吉川弘文館、1960年、11頁。 
^ 臼井 1989, p. 14.
^ 臼井 1989, pp. 16?18.
^ 臼井 1989, p. 19.
^ 森茂暁『中世日本の政治と文化』思文閣出版、2006年、80-100頁。 
^ 『後太平記』
^ 小川剛生『二条良基研究』笠間書院、2005年、87-90頁。 
^ 大田壮一郎『室町幕府の政治と宗教』塙書房、2014年、285-291頁。 
^ 大藪海 著「室町幕府ー権門寺院関係の転換点―康暦の強訴と朝廷・幕府―」、中島圭一 編『十四世紀の歴史学 新たな時代への起点』高志書院、2016年。ISBN 978-4-86215-159-9。 
^ 桜井 2009, pp. 66?67.
^ 桜井 2009, p. 28.
^ 久水 2011, pp. 346?347.
^ a b 今谷 1990.
^ 臼井信義「正長の改元」『日本歴史』52号、1952年。 など。
^ 久水 2011.

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