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出典検索?: "足利義満"
貞治5年(1366年)12月7日、春王は後光厳天皇より義満の名を賜り、従五位下に叙せられた[3][2]。なお、このとき尊義という諱も呈示されたが、柳原忠光により義満が撰ばれたという。
貞治6年(1367年)11月になると、父・義詮が重病となる。義詮は死期を悟り、11月25日に義満に政務を委譲し、細川頼之を管領として義満の後見・教導を託した。
12月3日、朝廷は義満を正五位下・左馬頭に叙任した。同月7日に義詮は死去し、義満はわずか10歳で将軍家の家督を継いだ[3][2][8]。
応安元年(1368年)4月15日、義満は管領細川頼之を烏帽子親として、元服した[3]。このとき、加冠を務める頼之を始め、理髪・打乱・?坏の四役を全て細川氏一門が執り行った[注釈 14][9]。
応安2年(1369年)12月30日、義満は朝廷から征夷大将軍宣下を受け、第3代将軍となった。管領細川頼之をはじめ、足利一門の守護大名が幕政を主導することにより義満は帝王学を学んだ。頼之は応安大法を実施して土地支配を強固なものにし、京都や鎌倉の五山制度を整えて宗教統制を強化した。また南朝最大の勢力圏であった九州に今川貞世(了俊)・大内義弘を派遣して、南朝勢力を弱体化させ幕府権力を固めた。
さらに京都の支配を強化するために、応安3年(1370年)に朝廷より山門公人(延暦寺及びその支配下の諸勢力及びその構成員)に対する取締権を与えられた。
永和元年(1375年)、二十一代集の20番目にあたる新後拾遺和歌集は義満の執奏により後円融院が勅撰を下命した。
永和4年(1378年)には、邸宅を三条坊門から北小路室町に移し、幕府の政庁とした。移転後の幕府(室町第)はのちに「花の御所」と呼ばれ、今日ではその所在地にちなみ室町幕府と呼ばれている。
義満は、朝廷と幕府に二分化されていた京都市内の行政権や課税権なども幕府に一元化するとともに、守護大名の軍事力に対抗しうる将軍直属の常備軍である奉公衆を設け、さらに奉行衆と呼ばれる実務官僚の整備をはかった。
永徳2年(1382年)、開基として相国寺の建立を開始し、翌年には自らの禅宗の修行場として塔頭鹿苑院も創建する。
至徳2年(1385年)には東大寺・興福寺などの南都寺院を参詣、嘉慶2年(1388年)には駿河で富士山を遊覧し、康応元年(1389年)には安芸厳島神社を参詣するなど、視察を兼ねたデモンストレーション(権力示威行為)を行っている。しかし、嘉慶2年(1388年)8月17日には、紀伊国和歌浦玉津島神社参詣遊覧の帰りに、南朝の楠木正勝の襲撃を受け、南朝に情報網を張っていた山名氏清のおかげでかろうじて命を救われるなど(平尾合戦)、これらの視察もいまだ安全といえる状況ではなかった[10]。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
権力強化と南北朝合一
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康暦元年(1379年)、義満は反・細川頼之派の守護大名である斯波義将や土岐頼康らに邸を包囲され頼之の罷免を求められ、頼之は罷免される(康暦の政変)。後任の管領には義将が任命され、幕政の人事も斯波派に改められる。頼之に対しては追討令が下されるが翌年には赦免されて宿老として幕政に復帰しており、また政変後に義満の将軍権力が確立している事から斯波・細川両派の抗争を利用して相互に牽制させていたと考えられている。頼康の死後、分裂して争う土岐氏の内紛につけ込んで土岐氏を討伐した(土岐康行の乱)。
永和4年(1378年)3月、義満は右近衛大将に任ぜられ(征夷大将軍と近衛大将兼務は惟康親王以来)、5か月後には権大納言を兼務して以後、朝廷の長老である二条良基の支援を受けながら朝廷に出仕し、公家社会の一員として積極的に参加する姿勢を見せる。
自らの昇進により足利家の家格を准摂家まで上昇させることを目標とし公家としての称号(家名)を室町殿(西園寺流室町家や卜部流室町家を改名させ室町の称号を独占した)と定めた。花押も、上級公家になったことに従いそれまでの武士型のものから公家型に改められた(武士の棟梁足利家の立場が必要な文書の場合は其の後も武士型花押が用いられ続ける)。
永和5年(1379年)8月14日、十市遠康ら南朝方武家に奪われた寺社領の返還を求める興福寺の大衆が、春日大社の神木を奉じて洛中に強訴に及んだ(康暦の強訴)。摂関家以下藤原氏系の公卿は神木の神威を恐れて出仕を自重して宮中行事が停滞する中、義満は自分が源氏であることを理由に出仕を続け、康暦2年(1380年)には一時中断していた御遊始・作文始・歌会始などを立て続けに大々的に再興して反対に大衆を威圧した。このため、同年12月15日に大衆と神木は幕府の十市討伐の約束以外に具体的な成果を得ることなく奈良に戻り、歴史上初めて神木入洛による強訴を失敗に終わらせて、寺社勢力に大打撃を与えた[11]。
もっとも、年が明けると幕府は興福寺に使者を派遣してこれまでになかった直接対話を行って興福寺側の要望を訊き、延暦寺に対しても幕府との直接交渉ができる山門使節の設置を認め、所領興行や仏事再興にも取り組むなどの硬軟両様の使い分けを行っており、後に義満が至徳2年(1385年)に南都参詣(前述)に行った際には南都の僧侶たちはこれをこぞって歓迎し、応永元年(1394年)に延暦寺ゆかりの日吉社参詣を行った際にも延暦寺から参詣費用の献上が行われて義満も御礼に堂舎を寄進している[12][注釈 15]。
義満は祖父の尊氏や父を越える内大臣、左大臣に就任し官位の昇進を続けた。永徳3年(1383年)には武家として初めて源氏長者となり淳和奨学両院別当を兼任、准三后の宣下を受け、名実ともに公武両勢力の頂点に上り詰めた。