足利義満
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貞治5年(1366年)8月、貞治の変が起こって斯波高経・義将父子が失脚すると、叔父の足利基氏の推挙により、細川頼之が後任の管領に任命された。この頃の春王は祖母の赤橋登子の旧屋敷に移ったり、赤松則祐の山荘に立ち寄ったりしている[7]
家督・将軍職相続.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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貞治5年(1366年)12月7日、春王は後光厳天皇より義満の名を賜り、従五位下に叙せられた[3][2]。なお、このとき尊義という諱も呈示されたが、柳原忠光により義満が撰ばれたという。

貞治6年(1367年)11月になると、父・義詮が重病となる。義詮は死期を悟り、11月25日に義満に政務を委譲し、細川頼之を管領として義満の後見・教導を託した。

12月3日、朝廷は義満を正五位下・左馬頭に叙任した。同月7日に義詮は死去し、義満はわずか10歳で将軍家の家督を継いだ[3][2][8]

応安元年(1368年)4月15日、義満は管領細川頼之烏帽子親として、元服した[3]。このとき、加冠を務める頼之を始め、理髪・打乱・?坏の四役を全て細川氏一門が執り行った[注釈 14][9]

応安2年(1369年)12月30日、義満は朝廷から征夷大将軍宣下を受け、第3代将軍となった。管領細川頼之をはじめ、足利一門の守護大名が幕政を主導することにより義満は帝王学を学んだ。頼之は応安大法を実施して土地支配を強固なものにし、京都や鎌倉の五山制度を整えて宗教統制を強化した。また南朝最大の勢力圏であった九州今川貞世(了俊)・大内義弘を派遣して、南朝勢力を弱体化させ幕府権力を固めた。

さらに京都の支配を強化するために、応安3年(1370年)に朝廷より山門公人(延暦寺及びその支配下の諸勢力及びその構成員)に対する取締権を与えられた。

永和元年(1375年)、二十一代集の20番目にあたる新後拾遺和歌集は義満の執奏により後円融院が勅撰を下命した。

永和4年(1378年)には、邸宅を三条坊門から北小路室町に移し、幕府の政庁とした。移転後の幕府(室町第)はのちに「花の御所」と呼ばれ、今日ではその所在地にちなみ室町幕府と呼ばれている。

義満は、朝廷と幕府に二分化されていた京都市内の行政権や課税権なども幕府に一元化するとともに、守護大名の軍事力に対抗しうる将軍直属の常備軍である奉公衆を設け、さらに奉行衆と呼ばれる実務官僚の整備をはかった。

応安7年(1374年)、日野業子を正室に迎えた。

永徳2年(1382年)、開基として相国寺の建立を開始し、翌年には自らの禅宗の修行場として塔頭鹿苑院も創建する。

至徳2年(1385年)には東大寺興福寺などの南都寺院を参詣、嘉慶2年(1388年)には駿河富士山を遊覧し、康応元年(1389年)には安芸厳島神社を参詣するなど、視察を兼ねたデモンストレーション(権力示威行為)を行っている。しかし、嘉慶2年(1388年)8月17日には、紀伊国和歌浦玉津島神社参詣遊覧の帰りに、南朝の楠木正勝の襲撃を受け、南朝に情報網を張っていた山名氏清のおかげでかろうじて命を救われるなど(平尾合戦)、これらの視察もいまだ安全といえる状況ではなかった[10]


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