凡例足利 義昭
足利義昭坐像(等持院霊光殿安置)
時代室町時代末期(戦国時代) - 安土桃山時代
生誕天文6年11月3日(1537年12月5日)
死没慶長2年8月28日(1597年10月9日)
改名千歳丸→覚慶(法名)→義秋→義昭→昌山道休(法名)
別名貧乏公方[1]
戒名霊陽院昌山道休
墓所京都府京都市北区の等持院
官位従五位下・左馬頭、参議・左近衛中将
征夷大将軍、従三位・権大納言、准三后
幕府室町幕府 第15代征夷大将軍(在任:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))
氏族足利氏(将軍家)
父母父:足利義晴、母:慶寿院(近衛尚通の娘)
猶父:近衛稙家
兄弟義輝、義昭、周ロ
妻正室:なし
側室:さこの方(赤松政秀娘、織田信長養女)、小宰相局(大河内氏)、一対局、春日局、大蔵卿局、小少将局(いずれも出自不詳)
子義尋、一色義喬?、永山義在?、矢島秀行
足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府の第15代(最後の)征夷大将軍(在職:1568年〈永禄11年〉- 1588年〈天正16年〉)[4][5]。
父は室町幕府の第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。 足利将軍家の家督相続者以外の子息として、慣例により仏門に入って、覚慶(かくけい)と名乗り、一乗院門跡となった。 兄・義輝が永禄の変で三好三人衆らに殺害されると、細川藤孝ら幕臣の援助を受けて南都から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。その後、朝倉義景の庇護を受け、義昭に改名した。 そして、織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任した。その後、信長と対立し、武田信玄や朝倉義景、浅井長政らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたが、やがて京都から追われ、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。 しかし、義昭は京都追放後も将軍として活動を続けており、河内国や和泉国、紀伊国に滞在したのち、備後国へ下向した。そして、毛利輝元の庇護を受け、亡命政権・鞆幕府を樹立し、信長に対抗した。 信長が本能寺の変によって横死したのち、豊臣政権が確立すると帰京し、豊臣秀吉から山城国槇島に1万石の所領を認められた。そして、将軍を辞して出家し、昌山道休(しょうざん どうきゅう)と号した。 義昭は前将軍であったので、殿中での待遇は大大名以上であり、また秀吉の御伽衆に加えられるなど、貴人として遇された余生を送った。 天文6年(1537年)11月3日、第12代将軍・足利義晴の次男として、京都で誕生した[6][7][8]。母は近衛尚通の娘・慶寿院[6][7]。幼名は千歳丸(ちとせまる)。 天文9年(1540年)7月、千歳丸が3歳の時、父の義晴は南都の興福寺一乗院に入室させる契約を行った[9]。兄に嗣子である義輝が既におり、跡目争いを避けるため、嗣子以外の息子を出家させる足利将軍家の慣習に従う形となった[7]。また、興福寺が大和一国の国主(大和の守護でもあった)であることから、寺社との結びつきを強める目的があり、将軍の若君が入室することによって、将来的に興福寺をはじめとする大和の寺社勢力が将軍家を扶助する体制を構築しようとしたとされる[10]。
概要
生涯
一乗院門跡として足利義晴
11月20日、千歳丸は伯父・近衛稙家の猶子となって、興福寺の一乗院に入室し(『親俊日記』『南行雑録』)[7][10][11]、法名を覚慶と名乗った[12]。覚慶は近衛家の人間として、一乗院門跡を継ぐ修行を行った[12]。
その後、覚慶は一乗院門跡となり、権少僧都にまで栄進し[13]、何事もなく二十数年を興福寺で過ごした[10]。このまま、覚慶はやがて興福寺別当となり、高僧としてその生涯を終えるはずであった[10][13]。
南都からの脱出・近江での生活足利義輝
永禄8年(1565年)5月19日、第13代将軍であった兄・義輝が京都において、三好義継や三好三人衆、松永久通らによって殺害された(永禄の変)[14]。このとき、母の慶寿院、弟で鹿苑院院主・周ロも殺害された[14]。