足利義昭
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

^ 矢島重成について実は義昭の子であるとする説もある[3]
^ 仁木義広が守護であった。国人の一人である服部氏は、この後も義昭に随行することとなる。
^ 当時の義昭のことを記した書物には、将軍家当主をさす「矢島の武家御所」などと呼ばれていたことが記されている。
^ 叙任時期については疑問視する意見があるが、『言継卿記』によれば永禄11年(1568年)2月に行われた義昭の対抗馬である足利義栄への将軍宣下当日に宣下の使者であった山科言継の屋敷に義昭の使者が現れて、従四位下への昇進推薦の仲介を依頼しに来たために困惑した事が書かれており、この以前に叙任を受けていた事は明らかである。
^ ただし、鞍谷御所は後世の創作で、実際の鞍谷氏は奥州斯波氏の嫡流の系統に属し、斯波一族でも宗家である武衛家に近い、高い格式を持った一族であるとする佐藤圭の説がある[38]
^ 幕府行政の実務を担当していた奉行衆8名のうち最終的には6名が越前の義昭の下に下向した事が確認でき、対抗相手であった足利義栄が京都に入っても将軍の職務を行うのが困難となり、将軍宣下後も京都に入れなかった一因になったという[39]
^ 矢島滞在当時より、足利義昭が上洛への協力を要請していることが判明している大名としては、佐竹氏由良氏北条氏上杉氏武田氏朝倉氏徳川氏織田氏六角氏毛利氏吉川氏小早川氏相良氏島津氏などが知られている[40]
^ 義栄の死去日には異説もあり、実際の死亡時期が判然としないため、義昭が将軍宣下を受けた際に義栄の死去によって将軍職が空席の状態であったのか、義昭が義栄を廃した上での将軍宣下であったのかは定かではない[58]
^ 前久は自ら京都を退去し、家督を子に譲ったとされる[78]
^ 前久は自ら京都を離れて大坂石山本願寺に下り、子の明丸(後の近衛信尹)を出仕させることで義昭の怒りをかわそうとした[79]。だが、義昭の怒りは激しく、正親町天皇や信長の執り成しにもかかわらず、近衛家は闕所扱いにされ、明丸も大坂への在国を命じられて、事実上の追放処分となった[79]。また、義昭のこの強硬な態度の背景には、明丸の出仕に強く反対する二条昭実の意向を受けたものであるとする説もある[80]。なお、これまで九条家・二条家と懇意であった石山本願寺は、これを機に近衛家と結ぶことになり、石山合戦の遠因となる[79]
^ 義昭は晴良の嫡男に偏諱を与えて「昭実」と名乗らせ、その弟である義演醍醐寺三宝院に入るに先立って自らの猶子としている[80]
^ 二条晴良には適齢期の娘がいなかった[81]
^ ただし、義昭は御内書において、「異論があれば天下に対し不忠になる」と将軍の貫禄を見せている[86]
^ 2日後には7箇条を追加し、16箇条となった。
^ 義昭と信玄の関係は公式には、元亀元年(1570年)4月に始まった。だが当時、信玄は信長と同盟関係にあり、義昭との仲の発展はなかった。義昭は信玄に対し、元亀3年(1572年)5月13日付で「軍事行動を起こして、天下が平定するよう努力せよ」との御内書を与えており、これが信玄の軍事行動の大義名分となった[157]。ただし、この御内書については、元亀4年(1573年)5月13日付のものとする鴨川達夫や柴裕之の説もある。柴は元亀3年10月が、信玄が徳川領に本格侵攻した時期であり、信玄が家康そしてその盟友である信長に対する軍事行動の正当化のために外交工作を活発化させ、義昭も武田・朝倉・浅井・三好・本願寺の連合軍を前に、義昭-信長が管轄する天下の存立(天下静謐)の存続が困難になったと判断し、信玄らの反信長連合を軸とする天下静謐への路線転換を図ったとし、信長包囲網が形成されたのはこの時であったとする。なお、鴨川・柴らの見解に沿えば、義昭は信玄の病没を知ることなく御内書を発給したことになる[158]
^ 信玄の妻と顕如の妻はともに公家の三条公頼の娘、つまり姉妹であり、また顕如の長男・教如と朝倉義景の娘は夫婦であった[106]
^ 『年代記抄節』には「摂津国池田、丹波内藤、シホ川、宇津、下田、室町殿御番ニ罷上ル」とある[180]
^ 天正10年(1582年)2月に吉川経安が子孫に書き残した置文「石見吉川家文書」では、「義昭将軍、織田上総介信長を御退治のために、備後鞆の浦に御動座され、毛利右馬頭大江輝元朝臣副将軍を給り、井び(ならび)に小早川左衛門佐隆景、吉川駿河守元春父子、その権威をとって都鄙鉾楯(とひむじゅん)にをよふ(及ぶ)」と記されている。
^ 直接兵を率いたのは、信長の息子・織田信忠である。
^ 秀吉が征夷大将軍に就いて幕府を開こうとし、義昭に自身を養子にするよう依頼したが断られたために関白を望むに至ったというのは、今日では事実ではないと考えられている。林羅山の『豊臣秀吉系譜』や『後鏡』にそうした記述がみられるものの、これを裏付ける史料はない。これが後に武内確斎の『絵本太閤記』に採られて、通説となった。
^細川家記』は没地を備後の鞆としており[340]、久野雅司は「慶長の役で名護屋城に出陣し、帰洛する途中に鞆にて病没した」としている[324][341]
^ 同様に京都から動座して幕府の政務を執った足利将軍には足利義詮足利義尚足利義稙、足利義晴、足利義輝らが存在する。
^ 久我父子の義昭への随行の事実が金子拓の指摘によって判明する[362]まで、義昭に随行した公家はいなかったと考えられていた[363]。なお、水野嶺は久我晴通が近衛家からの養子であったことから、義昭は反信長派であった近衛前久との和解の仲介を期待していたが、義昭と対立関係にあった前久は反対に義昭の追放を機に信長との和解へと向かったと指摘している[80]

出典^ a b 奥野 1996, p. 217.
^ a b 『旧柳川藩志』第十八章・人物・第十六節 柳川偉人小伝(六) 954頁。
^ 中野等『立花宗茂』吉川弘文館〈人物叢書〉、2001年。 
^ 国史大辞典(吉川弘文館)
^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 32頁。
^ a b 榎原 & 清水 2017, p. 394.
^ a b c d 久野雅司 2017, p. 33.

次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:447 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef