足利義教
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^ くじ引きの提案者は『満済准后日記』によると満済ということになっているが、万里小路時房の『建内記』によれば、先ず諸大名が評議して籤引を提案し、これを受けて義持が重ねて籤引を行うようにと言ったという。今谷明は『建内記』の記述が正しいと見ている[13]
^ 『建内記』によれば、満済や幕閣が候補者を義持の弟4人に絞ったのは義持の意向を反映したものとしているが、高鳥廉は義持の意向は彼の従兄弟にあたる満詮流の4兄弟(いずれも僧籍)から次期将軍が立てられる事態を阻止するものであったとしている[14]
^ 義持は生前、石清水八幡宮でくじを引き、「男子誕生」の卦が出ていたため、二度目のくじをひくことで、2つの矛盾する神意が示されることを恐れ、死後に開封するよう定めたと考えられている[15]
^ くじ引きで三宝院満済らが事前に仕組んだ不正であるとする説(田中義成『足利時代史』、佐々木銀弥『室町幕府』、本郷和人『人物を読む 日本中世史 頼朝から信長へ』(講談社選書メチエ、2006年) ISBN 4-06-258361-5)もあるが、史料の根拠はない。
^ 還俗した将軍としては護良親王がいるが、これは凶例とされていた[18]
^ 石原比位呂は兄の義持が後小松上皇-称光天皇(後光厳天皇系)のラインを擁護したのに対して義教が貞成親王-後花園天皇(崇光天皇系)のラインを擁護することで、義持の政治的立場は継承しつつ持明院統と足利将軍家の正統を義持および後光厳天皇系ではなく義教および崇光天皇系として位置づけようとしたのではないかと推測する[27]
^ 永享3年(1431年)に管領斯波義淳が自己の都合が悪い諮問をごまかして諸大名に義教からの諮問内容を正確に伝えなかった事件があった。なお、直接諮問方式でも奉行人などが義教と大名を取り次ぐことがあったが、前述の事件より諮問への取次者の関与は禁じられていた[28]
^ 一見すると、管領の権限抑制策と相反するように見えるが、軍事指揮における責任者は将軍(義教)自身であり、管領は将軍に代わって命令文書を作成するに止まり、むしろ将軍主導の強化策の延長上にあった[29]
^ 光聚院猷秀はもともと比叡山から追放された僧であったが、永享3年に帰山し、延暦寺の重要な役職に就いていた。猷秀の復権はすべて幕命による措置であったという(『大津市史』)
^ 義教の正室・正親町三条尹子の兄
^ 後に長禄の変の功により再興される。
^ この場合の「尼にさせられた」は、単に髪を切ったという意味で、出家させられた事を意味する訳ではない。男性が「坊主(頭)にさせられた」というのと、同じ意味合いである。
^ 上述されているように、義教自身は後花園天皇の実父である貞成親王を尊重する姿勢を見せていたが、その貞成親王でさえ義教の振る舞いを快くは思っていなかった。
^逆説の日本史』中で、「比叡山制圧や大名統制など、義教の先鞭を織田信長徳川家康らが完成させた」「九州平定・関東制圧など義満でも出来なかったことを成し遂げ、最大領土を獲得した」と評価している。「絶対権力の確立による国内安定・平和の達成」をほぼ完成させたが、絶頂期に暗殺されてしまい、室町幕府はその後成果を霧散させてしまった、との見解を示している。
^ 信長を評価しない一方で義教を「頼朝・秀吉・家康よりも上、武家史上未曾有の天才武将」と評価している[48]
^ 『続群書類従』や紫波郡の伝承による。詳しくは当該項目を参照のこと。

出典^ 『足利義教』 - コトバンク
^ a b c d 臼井 1989, p. 237.
^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 33頁。
^ a b 伊藤 2008, p. 228.
^ 「足利義教」『朝日日本歴史人物事典』
^ a b 室町幕府全将軍・管領列伝 2018, p. 220.
^ 室町幕府全将軍・管領列伝 2018, p. 114.
^ 稲葉 2019, p. 309.
^ 桜井 2001, p. 72.

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