足利義教
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19日、結果は諸大名によって義円に報告され、義円は幾度か辞退したが、諸大名が重ねて強く要請したため応諾した。これを受けて、同日中に青蓮院を退出して裏松義資(日野義資)邸に移った。この時、後小松上皇称光天皇共に日野資教(有光の父で、義資の大伯父にあたる)を勅使として義円の相続を賀したという[16]。また、青蓮院については満済の取り計らいによって、二条満基の子である義快を義円の猶子として継がせることとなった[17]

幕閣は権力の空白状態を埋めるべく、1日も早い将軍就任を望んだが、義円は元服前に出家したため俗人としてはいまだ子供の扱いであり、無位無官だった。さらに、法体の者が還俗して将軍となった先例もなく[注 6]武家伝奏万里小路時房は法体の者に官位を与えるのは罪人に官位を与えるようなものであると反対し、義円の髪が伸びて元服が行えるようになってから次第に昇任させるべきと回答、公卿の大半も同意見だった。幕閣はこの意見に従い、義円の髪が生えるまで待つことにした[19]。幕府は将軍の書状である御教書を発給させて義円に政務を執らせようとしたが、これも朝廷の反対に遭ったために管領下知状で代用することとなった[20]

3月12日、義円は還俗して義宣(よしのぶ)と名乗り、従五位下左馬頭に叙任された。4月14日には従四位に昇任したが、将軍宣下はなかった。このため鎌倉公方足利持氏が将軍となるという流言が走り、京都に不穏な空気が流れた。4月27日、長く続いた応永の元号が改められ、正長元年となったが、これは義宣の強い意向によるものであった[21]

7月6日、称光天皇が危篤に陥った。義宣は密かに伏見宮貞成親王の皇子・彦仁王を伏見宮御所から京都に移し、後小松上皇に後継者を決めるよう要請した。上皇が彦仁王を後継とする意向を伝えると、義宣は彦仁王が京都にいることを伝えた。この配慮に上皇は喜び、20日の称光天皇崩御後に彦仁王は即位した(後花園天皇[22]

正長2年(1429年)3月15日、義宣は義教(よしのり)と改名し、参議近衛中将に昇った上で、征夷大将軍となった。改名の理由は「義宣」(よしのぶ)が「世忍ぶ」に通じるという俗難(噂)があり不快ということだった[23]。当初は公家が協議して新たな名に「義敏」(よしとし)を決定していたが、よく考えると「教」(「ヘ」)の字の方が優れているということで、追って摂政二条持基を通じてこれを訂正させたという経緯がある[24]

ところが、永享元年(正長2年より改元)10月14日になって後小松上皇が出家をしようとしたが、義教は事前の相談がなかったことに激怒したため、一旦出家を断念することになった(『満済准后日記』)。最終的には2年後に義教との合意のもとで上皇の出家が実現したものの、義教は後小松上皇が自分を軽視しているとする不満を抱くことになり、新帝・後花園天皇の位置づけを巡って後小松上皇と対立していた天皇の実父・貞成親王との関係構築に動き、翌年に行われた後花園天皇の大嘗会には後小松上皇の反発を承知の上で義教は秘かに貞成親王を招待している[25]
義教の政策

施策の手本は父・義満に求めたと考えられており、義満時代の儀礼などの復興を行っている[26]。前述の称光天皇死後の皇位継承問題を手がけたのもその一端であり、後花園天皇新続古今和歌集は義教の執奏によるもので、父義満の執奏による新後拾遺和歌集以来の勅撰和歌集であるが、結果として現在に至るまで最後の勅撰和歌集となった。ただし、前述の通り、治天の君であった後小松法皇とは疎遠であり、天皇の実父である貞成親王および伏見宮家との関係を重視する方向へと転換させていくことになる。法皇が崩御後の、永享7年(1435年)に貞成親王が花の御所の義教を訪問すると、表では一親王に過ぎない貞成に対して目上として振る舞っていた義教は中に入ると一転して親王を上席とし、以降は義教が貞成を訪問する体裁を取るようになる。これは後花園天皇の父は後小松法皇であるとする法皇の遺詔の意図に反するものであった[注 7][25]。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに富士御覧日記の原文があります。ウィキソースに富士紀行の原文があります。

また、参加者の身分・家柄が固定化された評定衆引付に代わって、自らが主宰して参加者を指名する御前沙汰を協議機関とすること、管領を経由して行ってきた諸大名への諮問を将軍が直接諮問する[注 8]など、管領の権限抑制策を打ち出した。また、管領を所務沙汰の場から排除する一方で、増加する軍事指揮行動に対処するために、軍勢催促や戦功褒賞においてはこれまでの御内書と並行して管領奉書を用いるようになった[注 9]。また義満と同様に、みずから駿河国へ下向し、富士山の遊覧を行っている。さらに財政政策においても、義持の代から中断していた勘合貿易を再開させ、兵庫へ赴いて遣明船を視察するなど、幕府権力の強化につとめた。また社寺勢力への介入を積極的に行った。しかし義満時代とは将軍が立脚する基盤は大きく異なっており、実態もまた大きく異なるものとならざるを得なかった[30]


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