凡例足利 義持
足利義持肖像(神護寺蔵)
時代室町時代前期 - 中期
生誕元中3年/至徳3年2月12日(1386年3月12日)
死没応永35年1月18日(1428年2月3日)[1]
戒名勝定院殿顕山道詮大禅門
墓所相国寺勝定院
官位正五位下、左近衛中将、征夷大将軍
従四位下、正四位下、参議
従三位、権中納言、正三位、従二位
権大納言、正二位、従一位、右近衛大将
、内大臣、淳和奨学院
両院別当、贈太政大臣
幕府室町幕府第4代征夷大将軍(在任:応永元年(1394年) - 応永30年(1423年))
氏族足利氏(足利将軍家)
父母父:足利義満、母:藤原慶子(安芸法眼の娘)
兄弟尊満、宝幢若公、義持、義嗣、義教、大覚寺義昭ほか
妻正室:日野栄子(日野資康の娘)
子義量ほか
テンプレートを表示
足利 義持(あしかが よしもち)は、室町幕府の第4代征夷大将軍(在任:応永元年12月17日(1394年1月8日) - 応永30年3月18日(1423年4月28日))[2]。第3代将軍・足利義満の嫡男。母は側室の藤原慶子。
応永元年 (1394年) 12月17日に将軍職を継承するも、父義満の生前は実権を持たなかった。しかし、義満没後は幕府の様々な場面で義満とは異なる独自の政策を実施した(→#政策)。義持の治世中には、明との外交関係断絶、応永の外寇、上杉禅秀の乱や異母弟義嗣の殺害、鎌倉公方足利持氏との対立など、重大な政治的事件や争乱が発生したが、義持は室町幕府の歴代将軍の中では比較的安定した政権を築き上げた。将軍在職28年は室町将軍中では最長である。
応永30年 (1423年) 3月に息子の足利義量へ将軍職を譲った後も、政治の実権は握り続けた。そのため、義量が応永32年2月に死去した後、義持が死去するまでの約2年11ヶ月の期間、将軍職は空位となったが、問題はなかった。
応永35年 (1428年) 正月18日に43歳で死去。生前に後継者を定めなかったため、義持の後継は籤で選ばれることとなった。
生涯
出生・将軍職相続足利義持像(古画類聚
元中3年/至徳3年(1386年)2月12日、第3代将軍・足利義満の子として生まれる。生母は藤原慶子[3]。
応永元年(1394年)12月17日、義満より将軍職を譲られ、9歳で第4代将軍に就任する[4]。同日、元服して正五位下左近衛中将に叙任した(元服奉行は万里小路嗣房、理髪役は日野重光、加冠役は義満、将軍宣下の上卿は日野資教、奉行は油小路隆信)[5]。なお、義持の叙位に関して朝廷は当初、義満の先例に倣い従五位下に叙す考えであったが、義満が満足しなかったため詮議し直し、義満の権力の強大さを考慮して摂関家に準ずる位を与えた[6]。ただし足利家の家督はなおも義満の下にあり、政治の実権も全て義満に握られていた[7]。
義満の存命中父で大御所の足利義満
将軍就任後、義持の官職は急速に上昇し、応永2年(1395年)6月3日には従四位下、応永3年(1396年)4月20日に正四位下に叙された[8]。9月12日に参議、応永4年(1397年)1月5日に従三位、3月29日に権中納言、応永5年(1398年)1月5日に正三位、応永7年(1400年)1月5日に従二位、応永8年(1401年)3月24日に権大納言、応永9年(1402年)1月6日に正二位、11月19日に従一位、応永13年(1406年)8月17日に右大将を兼務するなどした[8]。この急速な昇進は公武に強い権力を保持していた父の強い意向があったためである[9]。
ただし幼年のこともあり、将軍として公式の活動を開始したのは応永7年(1400年)1月11日の幕府評定始からである[8]。