足利義持
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^ なお、応永20年(1413年)までの5年間で義持が行なった所領安堵は、他の将軍に比べると史料で判明している物だけでもかなり件数は多い[29]
^ 京都の幕府には10月13日夕刻にその注進がもたらされたが(『看聞日記』10月13日条では「今月二日前管領上杉金吾(上杉氏憲・禅秀)謀反を発す。故満氏(足利氏満)末子(足利満隆)大将軍となり、数千騎鎌倉へ俄かに寄せ来たる。左兵衛督持氏用意無きの上、諸大名敵方へ与力の間、馳せ参ぜず。管領(上杉憲基)御方としてわずか七百余騎、無勢の間、合戦に及ばず引き退き、駿河国堺へ落ちられおわんぬ。同四日左兵衛督持氏館以下鎌倉中焼き払われおわんぬ」とある。)、その時、義持は因幡堂に参篭中であった。そのため、因幡堂で諸大名を招集しての軍議が開かれ、幕府管轄地の駿河へ持氏を退かせる事などが決められた[51]
^ 10月15日、7日に伊豆三島で上杉軍と持氏軍が合戦して、8日に持氏軍が敗れて持氏や憲基ら25人が切腹したという情報が幕府に伝わり、この日も北野経所(公文所坊)に参篭していた義持はその報告を管領の細川満元から受けて激怒したという。ただし20日にはこの情報が虚説とわかり、憲基だけが切腹したとされるなど、京都では関東の情報をつかみかねていたらしい[52]
^ 義嗣に同調して斯波義教、管領細川満元、赤松義則らが協力していたと義嗣の側近が白状したとの噂も出た[58]
^ 満済らが弟4人に候補を絞ったのは義持の意向を反映したものとされ、義持が叔父足利満詮などの一流に将軍家が移ることを拒否したものとみられている[93]
^ 出家直前の応永30年3月には、自らを従五位下相当に過ぎない石清水八幡宮の権俗別当職という神官に就任した[173]
^ ユリウス暦
^ 宣明暦長暦
^ 数え年

出典^ 伊藤 2008, p. 1, 240.
^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 34頁。
^ 吉田 2017, p. 15.
^ 伊藤 2008, p. 2.
^ 臼井 1989, p. 90.
^ 伊藤 2008, p. 3.
^ 伊藤 2008, pp. 2?6.
^ a b c 伊藤 2008, p. 4.
^ 伊藤 2008, pp. 3?4.
^ a b c 吉田 2017, p. 35.
^ 伊藤 2008, pp. 4, 5.
^ 伊藤 2008, p. 6.
^ 臼井1989, p. 169.
^ a b 伊藤 2008, p. 11.
^ 伊藤 2008, p. 12-13.
^ 臼井 1989, p. 190-191.
^ a b 伊藤 2008, p. 14.
^ 伊藤 2008, pp. 14?15.
^ 伊藤 2008, p. 15-16.
^ 臼井 1989, p. 198-199.

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