足利義嗣
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義満の皇位簒奪の意図を指摘する立場からは、義嗣を皇位につける意図があったのではないかとする見解も存在する[9]。この立場に立つ今谷明は義嗣の元服は立太子に基づくものであると推測しているが、森茂暁は皇太子ではなく親王扱いに過ぎないと否定している[7]。また桜井英治は義嗣が皇位についたとしても、犬猿の仲である将軍義持と並立する形となるのは不可能だとしている[10]。石原比伊呂は義満の皇位簒奪を否定する立場から、自身の公家としての役割のうち将軍職とは関わりのない部分を義嗣に担わせて、後継者である義持の負担を軽減させる方針の下で行われたと見ている。だが、義持は足利将軍家は「裏方」に徹するべきとの考えから義満の朝廷関与のあり方を否定し、義嗣の排除に至る要因になったとみている[11]

しかし義嗣元服の3日後、義満は病の床につき、5月6日に死去した。
新御所

義満の死後、義嗣は「新御所」と呼ばれるようになった[12]。6月7日、義持が北山第に移り、義嗣は母春日局の屋敷に移った[12]

翌応永16年(1409年)1月5日には正三位に昇進、義持が三条坊門殿を築くと、義嗣のためにも同じ三条坊門に屋敷が建造されている[12]。閏3月23日には加賀権守、同年7月23日には権中納言に任官した[13]

応永18年(1411年)11月25日には権大納言、11月28日に従二位、応永19年(1412年)9月14日には院司、応永21年(1414年)1月5日には正二位に叙せられる[13]

義持と義嗣は、この間記録に残るだけでも6年間に10度以上連れ立って御成参内を行っている[13]
出奔と死

応永23年(1416年)10月29日の深夜、義嗣は山城国高雄に出奔し、出家した[14]。おりから鎌倉府において前関東管領上杉禅秀鎌倉公方足利持氏を襲撃する事件が起きており(上杉禅秀の乱)、幕府が持氏を支持することを決めたのがこの日であった[14]。禅秀は義嗣の妾の父であり、義嗣の行動は禅秀との連携と見られた[14]。義嗣は侍所によって逮捕され、仁和寺、次いで相国寺林光院へ幽閉された[14]。管領の細川満元は義嗣の糾問に反対したが、前管領の畠山満家は義嗣の切腹を求めて対立した[15]。11月下旬には、満元と斯波義重赤松義則らが事件に関与していた疑いが持ち上がっている[15]。近臣の山科教孝、日野持光は加賀に流罪となり、途中で殺害された[14]

応永25年(1418年)1月24日、義嗣は義持の命を受けた富樫満成により殺害、もしくは自害した[14]享年25。義嗣の死については畠山満家と満成が共謀していた可能性があり、管領満元はしばらく出仕を拒否している[16]

同年6月には富樫満成が、畠山満家の弟畠山満慶山名時煕土岐康政らが義嗣と共謀していたと訴え出た[17]。山名時煕は出仕を止められ、土岐康政の子土岐持頼は守護を解任されている[17]。11月には逆に義嗣の愛妾林歌局が、「満成が義嗣に謀反を勧め、発覚しそうになったため義嗣の謀反を訴えた」と義持に直訴した[16]。満成は高野山に出奔し、応永26年(1419年)2月、義持の命を受けた満家によって殺害された[18]

永享元年(1429年)9月17日に従一位を追贈され[14]、9月29日には新大倉宮の神号を贈られた[19]
後裔

越前国鞍谷氏は、江戸時代中期の『越前国名勝志』によって、義嗣の遺児である嗣俊が初代であるとされたが、現在では越前守護斯波氏の支流であると考えられている[20]
脚注^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 33頁。
^ a b c d e 室町幕府全将軍・管領列伝 2018, p. 114.
^ a b c 室町幕府全将軍・管領列伝 2018, p. 115.
^ 桜井英治 2009, p. 72.
^ 室町幕府全将軍・管領列伝 2018, p. 115-116.
^ 石原比伊呂 2012, p. 54.
^ a b 石原比伊呂 2012, p. 49.
^ a b c 室町幕府全将軍・管領列伝 2018, p. 116.
^ 桜井英治 2009, p. 73.
^ 桜井英治 2009, p. 74.
^ 石原比伊呂 2015, p. 178-181・355-356.
^ a b c 室町幕府全将軍・管領列伝 2018, p. 117.


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