足利成氏
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注釈[脚注の使い方]^ 甘棠院開山(貞巌昌永とも、一説には政氏の子)。『戦国人名辞典』(吉川弘文館)、『戦国人名事典』(新人物往来社)の項目「貞巖昌永」参照。
^ 例えば、元禄9年(1696年)に写された二階堂貞政(主殿)所蔵本の写しで、彰考館に所蔵されていた『喜連川判鑑』や『古河公方系図』、『古河御所之傳』、浅羽氏家蔵の『足利系図』(ともに『続群書類従』所収)
^ 某年(嘉吉元年と推定)12月29日付けで万寿王丸名義で石川中務大輔に充てられた書状(『石川文書』所収)が存在していたが、長い間「万寿王丸」という実在しない人物名義の偽文書とみられてきた。しかし、百瀬説は「永寿王丸」こそ江戸時代よりも以前の史料に見られない名前であることを指摘して、この書状を当時の文書であると判断した上で同時代史料に記された「万寿王丸」が正しい名前である事を論証した。
^ 例えば、『山川日本史小辞典』の項目「足利成氏」では1434? とする。その一方で、例えば『角川新版日本史辞典』では1438? とする。『国史大辞典』でも、生年を永享10年とする。更に『古河市史』に所収されている「足利家通系図」(資料中世編1542号)には成氏の誕生日を「永享三年辛亥四月二日生」と記されている。なお、安王丸が万寿王丸(成氏)の同母兄の可能性を指摘する長塚孝は永享3年は安王丸の生年とされているので、「足利家通系図」は誤って安王丸の誕生日を記載したとする説を採る[6][7]
^ 例えば、『国史大辞典』の項目「足利成氏」(杉山博の執筆)。また、本解説では、永享6年を生年とするのは、『結城戦場記』にもとづく旧説であり、1438年の方が有力であるとする。
^ 成氏の幼少の事績について2説ある背景として、幕府が一旦は次の公方に内定して京都から送られた定尊の事績と実際に公方に擁立された成氏の事績が混同されてしまった可能性もある。
^ 1434年以外では、『戦国人名事典』の項目「足利成氏」(佐藤博信の執筆)の永享3年(1431年)とする例もあり、現在は1434年を中心に1431?1436年の範囲で議論されていると総括される。ちなみに、1434年とする考えは、明応六年(1497年)に64歳で没したとする史料とも矛盾しない。例えば、『古河公方系図(続群書類従)』によれば、「持氏戦死時年僅五歳、明応六年九月晦日卒、年六十四」。『(下野喜連川)足利家譜』(東京大学史料編纂所蔵)によれば、「明応六年九月晦日卒、年六十四」。ただし一方で、『足利家通系図』によれば、「永享三年四月二日生、明応六年九月晦日卒、六十七歳」。(以上は『古河市史資料中世編』No.1540?1543にも収録)
^ 畠山持国は、かつて反持氏派に属した 細川持之勝元父子と対抗するために、成氏を支持したと推定される[19]
^ 北関東を中心とした伝統的豪族層(小山・結城・宇都宮・千葉・那須・小田等)は、永享の乱・結城合戦の結果、強大となった上杉氏に脅威を感じ、あるいは上杉氏に奪われた所領を取り戻すために、鎌倉公方復活による持氏時代への回帰を期待した。その一方で上杉氏は、長年にわたる主従関係を背景に、鎌倉公方が諸豪族の不満を抑えることを期待した。この矛盾が解決できなかったことが、後に享徳の乱につながったと考えられている[20][21]
^ 佐藤博信は徳政令の意義を見直し、成氏側と上杉側との権力争いの一環であり、上杉側に所領を奪われた寺社の困窮対策であったとの解釈を示している[23]
^ 戸谷穂高は従来「偽文書」の疑いを持たれていた宝徳4年の白河直朝宛源義氏書状2通(「國學院大學所蔵白河結城文書」(『白河市史』第5巻所収531・532号)の差出人を成潤であると推定し、成氏に代わる鎌倉公方になるべく還俗して「足利義氏」と名乗ったが五十子にて早世した(『源家御所家系図』『喜連川判鑑』)ために、上杉氏ら反成氏陣営は義氏(成潤)に代わり得る人材を求めた結果として、足利政知の下向に至ったとする[34]
^ 峰岸純夫は、成氏の公元号不使用の理由について、通説とやや異なる見解を示している。成氏は氏満・持氏と異なり、反乱軍と認定されたため改元詔書が届かず、その意思に関わらず、新元号を使用できる状況になかったとした[38]
^ 成氏方の伊豆遠征の記事は他の史料にはみられず、史実ではない可能性がある。また、『鎌倉大草紙』には同じ頃に成氏が五十子陣に攻撃を加えたとする記事があるため、伊豆と五十子が混同されている可能性がある[46]
^ 佐藤博信は本佐倉城のことを指すとし、和氣俊行は(下総)平山城のことを指すとしている。ただし、千葉孝胤が本佐倉城を本拠とするのはもっと後(『千学集』に従えば、文明16年のこと)[49]であるため、千葉郊外の平山城とする和氣説の方が正しいとする指摘もある[50]
^ 勝利した東軍は西軍諸将の責任を追及せずに赦免と幕府への復帰を認めた。成氏としては和睦交渉の相手を失った形となったが、幕府側も上杉氏の内紛によってこれ以上の成氏討伐の継続が困難になったことで、過去の成氏と西幕府との交渉については不問として、改めて成氏との和睦交渉に応じる姿勢に傾いたと考えられる[45]
^ 室町幕府及び関東管領上杉氏は千葉自胤を千葉氏当主と認定していたため。
^ 本来なら義政の後継将軍・足利義尚から一字を譲り受けるところだが、政氏を名乗る直前の長享3年(1489年)3月に義尚は亡くなっていた。

出典^ 簗瀬大輔『小田原北条氏と越後上杉氏』吉川弘文館、2022年。
^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 29頁。
^ 百瀬今朝雄「足利成氏の幼名」『日本歴史』414号、1982年。
^ 内山俊身「鳥名木文書に見る室町期東国の政治状況―永享の乱・結城合戦時の霞ヶ浦周辺と足利万寿王丸の鎌倉公方復権運動について」『茨城県立歴史館報』31号、2004年。/所収:長塚 2022, p. 105
^ 長塚 2022, p. 28.
^ 長塚 2022, p. 9.
^ 長塚 2022, p. 36.
^ a b c d e f g h i j 『神奈川県史通史編1』、889-960頁(第三編第三章第四節 鎌倉府の没落)
^ 佐藤 1989, pp. 46?49.
^ a b 黒田 2018, pp. 30?37, 石橋一展「足利持氏没後の争乱と鎌倉公方足利成氏の成立」
^ 佐藤 1989, p. 95.
^ 佐藤 1989, p. 91.
^ 『喜連川判鑑』、『永享記』、『鎌倉九代後記』など。なお、『喜連川判鑑』では文安2年に関東諸家が成氏が信濃の大井氏の下にいることを京都に申告したとしている。
^ 『康富記』文安六年(1449)7月3日条
^ 『喜連川判鑑』、後花園天皇口宣案(『戦国遺文古河公方編』No.2,3 収録)など。
^ 長塚 2022, p. 13.
^ 長塚孝「鎌倉府奉公衆の一過程―簗田氏の動向を素材として―」『葦のみち』15号、2003年。
^ 長塚 2022, pp. 9?12.
^ 『神奈川県史通史編1』、898頁
^ 佐藤 1989, pp. 54?62.

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