足利市
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足利家歴代当主の宗廟があった法界寺跡(樺崎寺)や、室町幕府三代将軍・足利義満が再興した浄因寺や、初代将軍足利尊氏が崇拝した日本三大毘沙門天の一つである大岩毘沙門天など足利氏ゆかりの寺が多い。京都市鎌倉市に似た景観を待つことから、「東の京都」、「北の鎌倉」と呼ばれている。足利市は全国京都会議に加盟しており、足利市と鎌倉市姉妹都市の提携を行なっている。
地理

市の北部に足尾山地、南部に関東平野が広がり、中央部を渡良瀬川が流れる。山地平野の接点に位置する。市役所(本城三丁目2145番地)の海抜は34.54m。群馬県前橋市から南東に約35km、栃木県都宇都宮市からは南西に約45kmの場所に位置する。

隣接する佐野市(人口約11万5000人)、桐生市(人口約10万5000人)、太田市(人口約22万2000人)、館林市(人口約7万4000人)とともに両毛地域の都市核であり、県都である宇都宮市よりも群馬県東部地方との経済的・文化的繋がりが深い。特に桐生市・太田市との関係は県境を跨いで密接であり、太田市とは平成の大合併において一時期、越境合併の話もあがった。旧小俣町葉鹿町は桐生織物組合に加盟していたことがあり、小俣町は桐生市外十四箇町村医療事務組合にも加盟していた。
隣接自治体

栃木県

佐野市


群馬県

桐生市

太田市

館林市

邑楽郡邑楽町


歴史

下野国足利荘は清和源氏義家流四男・義国からの足利氏ゆかりの地で、平安時代末期には足利義兼源頼朝の縁戚として鎌倉幕府創設に尽力し、有力御家人の本貫地として発展した。鎌倉時代足利尊氏後醍醐天皇の討幕運動に参加し、室町時代には足利将軍家となった。足利義康の時代からの産地として有り、近世近代において織物業が発達した。足利学校は学生数約3000人と記録されるほど盛況を迎え、室町時代には関東の文化の中心地として栄えた。

1947年昭和22年)9月16日カスリーン台風による豪雨で渡良瀬川が氾濫。市内一万戸の内九千戸が水没したほか、後に編入する周辺市町村(後述)も多くの浸水被害を出した[5]
沿革

1889年明治22年)4月1日 - 町村制施行により足利郡足利町が成立する。

1914年大正3年)1月14日 - 市章を制定する[6]

1921年(大正10年)1月1日 - 足利町が県内二番目の市制施行を果たし足利市となる。

1935年昭和10年)11月16日 - 初代足利市歌・市旗を制定する[7]

1951年(昭和26年)3月30日 - 毛野村を編入する。

1953年(昭和28年)4月1日 - 山辺町を編入する。

1954年(昭和29年)

8月1日 - 三重村山前村を編入する。

11月1日 - 北郷村名草村を編入する。


1959年(昭和34年)4月1日 - 富田村を編入する。

1960年(昭和35年)7月1日 - 群馬県山田郡矢場川村の北東部を編入する。(南西部は太田市に編入する。)

1962年(昭和37年)10月1日 - 御厨町坂西町を編入。これにより足利郡が消滅。現在の市域が完成する。

2011年(平成23年)4月1日 - 2代目にあたる市歌「われらのまちに」を制定。

人口

1920年大正9年)の第一回国勢調査での足利町の人口は3万3千人で、栃木県内では県庁所在地である宇都宮市に次いで2番目に多かった。1965年昭和40年)国勢調査で足利市の人口が15万人に達し、桐生市の人口を追い抜いて両毛地域で最多人口の市となった。国勢調査での最多人口は1990年(平成2年)の16万8千人で、2005年(平成17年)国勢調査にて小山市に、2014年(平成26年)に下都賀郡岩舟町を編入した栃木市に抜かれ、2015年(平成27年)の国勢調査人口は14万9千人で県内4番目の人口規模となっている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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