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凡例足利 尊氏
絹本著色伝足利尊氏像(浄土寺蔵)
時代鎌倉時代末期 - 室町時代(南北朝時代)初期
生誕嘉元3年7月27日(1305年8月18日)[注釈 1]
死没延文3年4月30日(1358年6月7日)
享年54(満52歳没)
改名又太郎(幼名)→高氏→尊氏
戒名等持院殿仁山妙義大居士長寿寺殿
墓所京都府京都市北区萬年山等持院
神奈川県鎌倉市寶亀山長寿寺
官位従五位上、鎮守府将軍、従四位下、左兵衛督、従三位、武蔵守、正三位、参議、征東将軍、従二位、権大納言、征夷大将軍、正二位、贈従一位、贈左大臣、贈太政大臣
幕府鎌倉幕府→建武の新政→室町幕府初代征夷大将軍(在任:1338年 - 1358年)
主君守邦親王(北条高時)→守邦親王(北条守時)→後醍醐天皇→光明天皇→崇光天皇→後村上天皇[注釈 2]→後光厳天皇
氏族河内源氏義国流足利氏(足利将軍家)
父母父:足利貞氏、母:上杉清子
兄弟高義、尊氏、直義、源淋(田摩御坊)[注釈 3]
妻正室:北条守時の妹・赤橋登子
側室:加古基氏の娘、越前局ほか
子竹若丸、直冬、義詮、基氏、鶴王、他
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足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代末期から室町時代(南北朝時代)前期の日本の武将。室町幕府初代征夷大将軍[2](在職:1338年 - 1358年)。鎌倉幕府の御家人。足利貞氏の次男。足利将軍家の祖。姓名は源 尊氏(みなもと の たかうじ)。正式名称は足利又太郎源尊氏(あしかがまたたろうげんたかうじ)。 河内源氏義国流足利氏本宗家の8代目棟梁。足利貞氏の次男として生まれる。歴代当主の慣例に従い、初めは得宗・北条高時の偏諱を受け高氏「たかうじ」(源高氏)と名乗っていた。佐々木道誉も同時期に同様にして名乗った佐々木高氏(源高氏)[3][4]と本姓(源氏)名前ともに同姓同名。共に鎌倉幕府を打倒した新田義貞は同族である。正慶2年(1333年)に後醍醐天皇が伯耆国船上山で挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛したが、丹波国篠村八幡宮で幕府への反乱を宣言、六波羅探題を滅ぼした。幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の偏諱を受け、高氏の名を尊氏(たかうじ)に改める。鎌倉時代の足利宗家当主の通字は「氏」であったため、室町幕府の将軍15人の中で唯一「義」の字が諱に使われていない。 後醍醐天皇の新体制である建武の新政下で、持明院統に近く冷遇されていた貴族西園寺公宗と北条高時の弟泰家の反乱計画発覚など政情不安が続く中、鎌倉方の残党北条時行が起こした中先代の乱により窮地に陥った弟・足利直義救援のため東下し、乱を鎮圧したあとも鎌倉に留まり、恩賞を独自に配布した。これを独自の武家政権を樹立する構えと解釈した天皇との関係が悪化、建武の乱が勃発した。箱根・竹下の戦いでは大勝するが、第一次京都合戦
概要
幕府を開くにあたって、尊氏は是円・真恵兄弟らへの諮問のもと、その基本方針となる『建武式目』を発布。征夷大将軍として幕府の軍事を取り仕切り守護を纏めた。これを支えた保守派の直義に対して、尊氏の執事高師直は執事施行状など尊氏の意を受け先進的な体制を取りいれていた。後醍醐天皇の崩御後は、その菩提を弔うため天竜寺を建立し、全国の戦没者を弔うため66の安国寺利生塔を設立させた。その後、師直派と直義派との間で観応の擾乱が起こった。師直・直義の死により乱は終息したが、その後も南朝や実子の足利直冬など反対勢力の打倒に奔走し、晩年には政治にも手腕を発揮して統治の安定に努めた。
勅撰歌人である武家歌人としても知られ、『新千載和歌集』は尊氏の執奏により後光厳天皇が撰進を命じたものであり、以後の勅撰和歌集は、二十一代集の最後の『新続古今和歌集』まですべて将軍の執奏によることとなった。 尊氏は嘉元3年 (旧暦)(1305年)[5][注釈 1]、足利氏当主の貞氏の次男として生まれた[7]。確実な生誕地は不明で、足利氏の本貫(名字の根拠の地)である下野国足利荘(栃木県足利市)・上杉氏の本貫である丹波国何鹿郡八田郷上杉荘(京都府綾部市上杉)・鎌倉幕府の本拠地である相模国鎌倉(神奈川県鎌倉市)などの説がある[8]。
生涯
誕生と家督相続