足利将軍一覧
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空位[注釈 4]嘉吉3年7月22日 - 文安6年4月28日
0(1443年8月17日 - 1449年5月20日
4年 9か月
08あしかが よしまさ
足利義政
(初め義成)ししよういん/慈照院01-10/従一位
2/左大臣1449-文安6年4月29日 - 文明5年12月19日
1449年5月21日 - 1474年1月7日)024年 8か月足利義教55しようこくし/相国寺
09あしかが よしひさ
足利義尚
(晩年は義煕)
 しようとくいん/常徳院01-10/従一位
3/内大臣1473-文明5年12月19日 - 長享3年3月26日
0(1474年1月7日 - 1489年4月26日)15年 4か月足利義政25しようこくし/相国寺
0*
空位[注釈 5]長享3年3月26日 - 延徳2年7月4日
0(1489年4月26日 - 1490年7月21日
1年 3か月
10あしかが よしき
足利義材
(のちの義尹→義稙)
 けいりんいん/恵林院01-10/従一位
権大納言1490-延徳2年7月5日 - 明応2年6月29日
1490年7月22日 - 1493年8月11日)003年足利義視58-さいこうし/西光寺-
0*
空位[注釈 6]明応2年6月30日 - 明応3年12月26日
0(1493年8月12日 - 1495年1月22日
1年 5か月
11あしかが よしずみ
足利義澄
(初め義高)ほうしゆういん法住院03-10/従三位
参議2/1494-明応3年12月27日 - 永正5年4月16日
0(1495年1月23日 - 1508年5月15日)13年 4か月足利政知32𘚟/-
10
(再)あしかが よしたね
足利義稙
(初め義材→義尹)けいりんいん/恵林院01-10/従一位
権大納言-1508-永正5年7月1日 - 大永元年12月25日
1508年7月28日 - 1522年1月22日)0013年 6か月あしかがよしみ/足利義視-58-さいこうし/西光寺-
12あしかが よしはる
足利義晴
 はんしよういん/萬松院03-10/従三位
権大納言1521-大永元年12月25日 - 天文15年12月20日
1522年1月22日 - 1547年1月11日)25年足利義澄40よしはるしそうし/義晴地蔵寺
13あしかが よしてる
足利義輝
(初め義藤)こうけんいん/光源院03-10/従三位
参議1/左近衛中将1546-天文15年12月20日 - 永禄8年5月19日
00(1547年1月11日 - 1565年6月17日)18年 5か月足利義晴30𘚟/-
0*
空位[注釈 7]永禄8年5月20日 - 永禄11年2月7日
0(1565年6月18日 - 1568年3月5日
2年 9か月
14あしかが よしひで
足利義栄
(初め義親)こうとくいん/光徳院05-12/従五位下
左馬頭1568/02-永禄11年2月8日 - 同年9月[注釈 8]000
1568年3月6日 - 同年10月?) 00年 8か月足利義維29さいこうし/西光寺
15あしかが よしあき
足利義昭
(初め義秋)れいよういん/霊陽院03-10/従三位
権大納言1568/10-永禄11年10月18日 - 天正16年1月13日
00(1568年11月7日 - 1588年2月9日[注釈 9])19年 3か月足利義晴61𘚟/-

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 正平一統後の将軍解任から、後光厳天皇即位に伴う北朝の公武官位の復旧までの、数ヵ月の失職期間を含む。
^ 義量の死後、父の義持が室町殿として政務をとった。応永35年1月18日に義持が病没すると、青蓮院門跡であった義円が後継となったが、実際の任官は還俗元服を行った後になる。この間の政務は義円(義宣→義教)と管領畠山満家によって行われていた。
^ 嘉吉の変で義教が横死した後、義勝が後継と定められたが、幼少であったために征夷大将軍任官まで時間を要した。この間の政務は有力守護大名の合議によって行われている
^ 義勝の病死後、義政が後継と定められたが、幼少であったために征夷大将軍任官まで時間を要した。この間の政務は有力守護大名の合議によって行われている
^ 義尚の病死後、義政が「東山殿」としてしばらく政務をとったが、延徳2年1月7日に義政が死去すると次期将軍義材の父足利義視大御所として政務をとった
^ 明応の政変により義材が解官され、義澄が征夷大将軍に任ぜられるまでの期間。この期間は細川政元による京兆専制が行われていた。
^ 義輝が殺害され、三好三人衆が擁立した義栄が将軍に任官するまでの期間。この時期京都に足利家の惣領となる人物は存在しなかった。
^ 義栄の死去日について諸説あり、次の義昭の将軍宣下時における生死は不明である。
^ 一般には元亀4年(1573年)の織田信長による京都追放の時点をもって幕府機構の解体(滅亡)と見なされているが、名目上は天正16年(1588年)に豊臣秀吉の仲介で准后に叙せられるまで征夷大将軍に在職していた(『公卿補任』)。

関連項目

足利氏

足利将軍家

足利将軍家御台所

源氏 - 清和源氏


鎌倉将軍一覧

徳川将軍一覧










室町幕府将軍


足利尊氏1338-1358

足利義詮1359-1367

足利義満1369-1395

足利義持1395-1423

足利義量1423-1425

足利義教1429-1441

足利義勝1442-1443

足利義政1449-1474

足利義尚1474-1489

足利義材1490-1495

足利義澄1495-1508

足利義稙(再任)1508-1522

足利義晴1522-1547

足利義輝1547-1565

足利義栄1568

足利義昭1568-1588

※足利義稙は足利義材の再任。
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