紀元前233年、桓?は秦軍を率いて東の上党に進軍し、太行山を越えて趙の深部に侵入し趙軍を破り[18]、赤麗と宜安(現在の河北省藁城区の西南)を占領した[18][15]。李牧率いる趙軍と秦軍は宜安付近で対峙した。激しい戦いの末に、秦軍は大敗した[17][19][15]。桓?の率いる秦軍のうち少数は包囲から脱し、秦国へ退却した[17]。また『戦国策』によると桓?は討ち死にしたとある[20][21]。趙は秦に占領されていた土地を取り戻した。その功により李牧は武安君に封じられた[22][17][23]。詳細は「番吾の戦い」を参照
紀元前232年、秦王政は兵を大挙し、趙に侵攻した[24]。軍は?城に到着し、その後太原に到着した[24]。秦軍は狼孟と番吾を占領したが[25]、李牧が秦軍を撃破した[25][19]。さらに李牧は秦から韓・魏の国境まで領土を奪還した[26][15]。
紀元前229年、斉との連合も情報が漏れ、旱魃や地震災害[27][28]につけこまれ、秦に侵攻された。王翦によって買収された幽繆王お気に入りの重臣郭開または韓倉[29]の讒言により、秦軍を撃退し続けた李牧が殺された。また、司馬尚も更迭された[30]。幽繆王は趙葱・顔聚に軍を率いさせ迎え撃ったが敗れ、趙葱は戦死した。 紀元前228年、国都邯鄲が落ちた。趙幽繆王と顔聚が捕虜となり、趙は滅亡した[30][31][32]。生まれた邯鄲に入った秦王政は、母の太后の実家と揉めていた者たちを生き埋めにして秦へ戻った[32]。 のち、太子を廃されていた幽繆王の兄の公子嘉が代へ逃れ、趙の大夫らに擁立されて亡命政権・代を建て、燕と結んで対抗しようとした(燕攻略も参照)。しかし、紀元前222年に代での政権も燕とともに、王賁により代王嘉が捕虜になったことで滅ぼされ、趙は完全に滅亡した。 始皇帝の死後、秦の政治が腐敗して陳勝・呉広の乱が起こると、これに乗じて趙王の子孫の趙歇が趙を復興させたが、韓信の背水の陣に敗れて滅ぼされた。
滅亡
歴代君主
趙氏の当主
趙夙(紀元前?年 - 紀元前?年)
成季(衰)(紀元前?年 - 紀元前?年)…趙夙の弟
宣子(盾)(紀元前?年 - 紀元前597年)
屏季(括)(紀元前?年 - 紀元前?年)…宣子の異母弟
文子(武)(紀元前583年 - 紀元前541年)…趙朔(荘子)の息子、宣子の孫
景子(成)(紀元前540年 - 紀元前517年)
簡子(鞅)(紀元前516年 - 紀元前476年)
襄子(無恤)(紀元前475年 - 紀元前425年)桓子(嘉)(紀元前424年)…襄子の息子[33][注 1]
献侯(浣)(紀元前423年 - 紀元前409年)…趙周(代成君)の息子、趙伯魯(襄子の異母長兄)の孫
趙の君主
列侯(籍)(紀元前408年 - 紀元前400年)
武侯(紀元前399年 - 紀元前387年)…列侯の弟
敬侯(章)(紀元前386年 - 紀元前375年)…列侯の息子
成侯(種)(紀元前374年 - 紀元前350年)
粛侯(語)(紀元前349年 - 紀元前326年)
武霊王(雍)(紀元前325年 - 紀元前299年)
恵文王(何)(紀元前298年 - 紀元前266年)
孝成王(丹)(紀元前265年 - 紀元前245年)
悼襄王(偃)(紀元前244年 - 紀元前236年)
幽繆王(遷)(紀元前235年 - 紀元前228年)
代王(嘉)(紀元前227年 - 紀元前222年)…幽繆王の異母兄
人物
武官
趙奢
?煖
廉頗
李牧
司馬尚
楽乗
趙括
扈輒
文官
張孟談(中国語版
公仲連(中国語版)
大戊午(中国語版)
肥義(中国語版)
李兌(中国語版)
皮相国(中国語版)
虞卿
藺相如
蘇代
毛遂
韓倉(中国語版)
公孫竜
仇液(中国語版)
姚賈
司空馬