趙_(戦国)
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紀元前233年、桓?は再び出兵し宜安・平陽・武城の3城を取り、再び趙軍を破りその将を討ち取った[14][15]。この2戦で趙は10万以上の兵を失った[16]。そのため、幽繆王は北辺で功があった李牧を中央に召喚し、大将軍に任じた[17]。詳細は「肥下の戦い」を参照

紀元前233年、桓?は秦軍を率いて東の上党に進軍し、太行山を越えて趙の深部に侵入し趙軍を破り[18]、赤麗と宜安(現在の河北省藁城区の西南)を占領した[18][15]。李牧率いる趙軍と秦軍は宜安付近で対峙した。激しい戦いの末に、秦軍は大敗した[17][19][15]。桓?の率いる秦軍のうち少数は包囲から脱し、秦国へ退却した[17]。また『戦国策』によると桓?は討ち死にしたとある[20][21]。趙は秦に占領されていた土地を取り戻した。その功により李牧は武安君に封じられた[22][17][23]。詳細は「番吾の戦い」を参照

紀元前232年、秦王は兵を大挙し、趙に侵攻した[24]。軍は?城に到着し、その後太原に到着した[24]。秦軍は狼孟番吾を占領したが[25]、李牧が秦軍を撃破した[25][19]。さらに李牧は秦からの国境まで領土を奪還した[26][15]

紀元前229年との連合も情報が漏れ、旱魃地震災害[27][28]につけこまれ、秦に侵攻された。王翦によって買収された幽繆王お気に入りの重臣郭開または韓倉[29]の讒言により、秦軍を撃退し続けた李牧が殺された。また、司馬尚も更迭された[30]。幽繆王は趙葱・顔聚に軍を率いさせ迎え撃ったが敗れ、趙葱は戦死した。
滅亡

紀元前228年、国都邯鄲が落ちた。趙幽繆王と顔聚が捕虜となり、趙は滅亡した[30][31][32]。生まれた邯鄲に入った秦王政は、母の太后の実家と揉めていた者たちを生き埋めにして秦へ戻った[32]

のち、太子を廃されていた幽繆王の兄の公子嘉へ逃れ、趙の大夫らに擁立されて亡命政権・を建て、と結んで対抗しようとした(燕攻略も参照)。しかし、紀元前222年に代での政権も燕とともに、王賁により代王嘉が捕虜になったことで滅ぼされ、趙は完全に滅亡した。

始皇帝の死後、秦の政治が腐敗して陳勝・呉広の乱が起こると、これに乗じて趙王の子孫の趙歇が趙を復興させたが、韓信の背水の陣に敗れて滅ぼされた。
歴代君主
趙氏の当主
趙夙(紀元前?年 - 紀元前?年)

成季(衰)(紀元前?年 - 紀元前?年)…趙夙の弟

宣子(盾)(紀元前?年 - 紀元前597年)

屏季(括)(紀元前?年 - 紀元前?年)…宣子の異母弟

文子(武)(紀元前583年 - 紀元前541年)…趙朔(荘子)の息子、宣子の孫

景子(成)(紀元前540年 - 紀元前517年)

簡子(鞅)(紀元前516年 - 紀元前476年

襄子(無恤)(紀元前475年 - 紀元前425年桓子(嘉)(紀元前424年)…襄子の息子[33][注 1]

献侯(浣)(紀元前423年 - 紀元前409年)…趙周(代成君)の息子、趙伯魯(襄子の異母長兄)の孫

趙の君主
列侯(籍)(紀元前408年 - 紀元前400年

武侯紀元前399年 - 紀元前387年)…列侯の弟

敬侯(章)(紀元前386年 - 紀元前375年)…列侯の息子

成侯(種)(紀元前374年 - 紀元前350年

粛侯(語)(紀元前349年 - 紀元前326年

武霊王(雍)(紀元前325年 - 紀元前299年

恵文王(何)(紀元前298年 - 紀元前266年

孝成王(丹)(紀元前265年 - 紀元前245年

悼襄王(偃)(紀元前244年 - 紀元前236年

幽繆王(遷)(紀元前235年 - 紀元前228年

代王(嘉)(紀元前227年 - 紀元前222年)…幽繆王の異母兄

人物
武官

趙奢

?煖

廉頗

李牧

司馬尚

楽乗

趙括

扈輒

文官

張孟談
(中国語版)

公仲連(中国語版)

大戊午(中国語版)

肥義(中国語版)

李兌(中国語版)

皮相国(中国語版)

虞卿

藺相如

蘇代

毛遂

韓倉(中国語版)

公孫竜

仇液(中国語版)

姚賈

司空馬


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