前漢の趙国は冀州に属し、邯鄲・易陽・柏人・襄国の4県を管轄した。王莽のとき、桓亭郡と改称された[6]。
29年(建武5年)、広陽王劉良が趙王となり、再び趙国が置かれた[7]。後漢の趙国は邯鄲・易陽・柏人・襄国・中丘の5県を管轄した[8]。213年(建安18年)、趙王劉珪が博陵王となると、趙国は除かれ、趙郡が立てられた[9]。
232年(太和6年)、鉅鹿王曹幹が趙王となり、趙国が立てられた[10]。
277年(咸寧3年)、司馬倫が趙王となり、趙国が立てられた[11]。晋の趙国は平棘・房子・元氏・高邑・柏人・中丘・平郷・下曲陽・?の9県を管轄した[12]。
北魏のとき、趙郡は殷州に属し、平棘・房子・元氏・高邑・欒城の5県を管轄した[13]。
583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、趙郡は廃止され、趙州に編入された。596年(開皇16年)、欒州が置かれた。605年(大業元年)、趙州に統合された。607年(大業3年)、州が廃止されて郡が置かれると、趙州は趙郡と改称された。趙郡は平棘・高邑・賛皇・元氏・?陶・欒城・大陸・柏郷・房子・藁城・鼓城の11県を管轄した[14]。
618年(武徳元年)、張志昂が唐に降ると、趙郡は趙州と改められた。742年(天宝元年)、趙州は趙郡と改称された。758年(乾元元年)、趙郡は趙州と改称され、趙郡の呼称は姿を消した[15]。
脚注^ 『漢書』高帝紀
^ 『漢書』高五王伝
^ 『漢書』高后紀
^ 『漢書』文帝紀
^ 『漢書』景十三王伝
^ 『漢書』地理志下
^ 『後漢書』光武帝紀上
^ 『後漢書』郡国志二
^ 『後漢書』宗室四王三侯列伝
^ 『三国志』魏書武文世王公伝
^ 『晋書』世祖紀
^ 『晋書』地理志上
^ 『魏書』地形志二上
^ 『隋書』地理志中
^ 『旧唐書』地理志二