趙壱は退出すると、公卿の中で名を託するに足る者は河南尹の羊陟しかいないと見定めて、その邸を訪れて面会を求めた。羊陟は趙壱を邸内に通すことは許したが、まだ寝床から起き出してこなかった。そこで趙壱は上堂に入りこみ、「西州に隠居するわたくしめは、羊公の立派な人柄を慕ってまいりました。いま面会することがかないますなら、すぐに死んでもかまいません」と言って号哭したため、家中は大騒ぎになった。羊陟は尋常な人物ではないと知って起き出し、趙壱と語り合った。羊陟は翌朝車騎を従えて、趙壱の名を通してやった。ときに計吏たちの多くは車馬や帷幕を飾り立てていたが、趙壱はひとり粗末な車で、そのそばに寝泊まりしていた。趙壱が羊陟の前にその車を引いていくと、羊陟は車の下に座り込んだので、そばにいた人々はみな驚いた。ふたりは夕方まで歓談し、羊陟は去るときに趙壱の手を取って、「良玉は分かたれることがない。涙と血がお互いに証明するだろう[2]」といった。羊陟は袁逢とともに趙壱を推薦した。趙壱の名は洛陽で広く知られるようになった。
趙壱は西に帰る途中、弘農郡に立ち寄って、太守の皇甫規に挨拶しようとしたが、門番が通そうとしなかったため立ち去った。門番がこのことを報告すると、皇甫規は趙壱の名声を聞き知っていたことから、謝罪の手紙を書いて追いかけさせたが、趙壱はかえりみなかった。
州郡は争って趙壱を招こうと礼を尽くし、10たび公府の辟召があったが、趙壱はいずれも就任せず、家で死去した。
かれによって著された賦・頌・箴・誄・書・論および雑文は合わせて16篇あった。また文集2巻があった[3]。
脚注^ 『後漢書集解』は洪頤?の説を引いて、「『後漢書』霊帝紀の光和元年2月に光禄勲の袁滂が司徒となり、2年3月に司徒の袁滂が罷免されている。元年に計吏の任を授けた者は袁逢ではない」という。
^ 卞和の玉の故事を踏まえている。
^ 『隋書』経籍志四に「趙壱集二巻、録一巻」とあり、『旧唐書』経籍志下および『新唐書』芸文志四に「趙壱集二巻」とある。
伝記資料
『後漢書』巻80下 列伝第70下