趙匡胤
[Wikipedia|▼Menu]

建国してから藩鎮の兵権を奪い、贓吏(賄賂を貪る官吏)を処刑するなど綱紀を取り締まって乱世の再発を防ぎ、農業と学問を奨励、刑罰の軽減など行い、泰平の世を築いた偉大な創業の君主であり、趙匡胤の在位17年間が宋王朝300年の繁栄をもたらしたものとする。

趙匡胤はたびたび「父母が病にかかっても顧みないものは罰する」「父母と財産を異とするものは罰する」など、唐末五代の戦乱で荒廃した秩序を建て直しを図った詔を出しており、『宋史』は唐末五代の戦乱の時代に荒廃した道徳や文化を建て直した宋王朝は、に比べても劣らないものとしている。
趙匡胤にまつわるエピソード

騎射が得意で、悪馬を馴らそうと勒を付けずに乗馬しようとしたが、城門に頭をぶつけて落馬したことがあった。目撃者達は首が折れて死んでしまったかと思っていると、趙匡胤はすぐさま起き上がり馬を追っていったが、一つも傷がなかったという(『
宋史』 本紀第一 太祖一)。

世宗の後唐征伐の最中、父の趙弘殷が夜中に趙匡胤に城の開門を求めたが、「親子の関係といえども城門の開閉は公務である」と言い、城門を開けなかった。そして趙弘殷は朝になってようやく入城することができた。

以下のことなどから、無駄な殺生を嫌っていたことがわかる。

かつて自分の君主であった恭帝柴宗訓を禅譲後も鄭王として遇し、柴宗訓が死ぬと喪服を着けて10日間政務をとりやめ、皇帝として葬を執り行った。

亡国の君主である孟昶李U劉eらを処刑せずに侯として遇した。

南唐征服の際には曹彬らに「落城の際には決して殺戮を行なうな」と訓令した。

陳橋の変の際、王彦昇が禅譲を妨げようとした副都指揮使の韓通を勝手に殺したことを責め、助命したものの、節鉞(征伐の将軍に与える割符)を決して与えることはなく、さらに韓通に中書令を追贈し、厚く葬った。

王全斌が後蜀を滅ぼした際に降兵2万7千を虐殺し、蜀の財貨を奪うなどを行ったことを咎め、蜀征伐の功にもかかわらず降格処分にした。

呉越銭俶(趙弘殷を避諱し、銭弘俶から改名)が自ら来朝した時、宰相以下の百官はみな、銭俶を捕らえ、その国土を奪うことを請うたが、趙匡胤は取り合わなかった。銭俶が帰国する際、群臣の銭俶を捕らえるように求めた上表文を持たせ、帰国の途中これを見た銭俶は感動し、後に国土を献じたという。

南漢の最後の君主の劉eは、好んで毒酒をもって臣下を毒殺していたことがあった。降伏後、趙匡胤の巡幸に従った時、趙匡胤より酒杯を勧められると、自身を毒殺しようとしてるのではないかと疑い、泣いて「臣(私)の罪は許されるものでありませんが、陛下は私を殺さないでいてくれました。どうか開封の庶民として泰平の世を過ごさせてください。どうかこの酒杯を飲ませないでください」と言った。これに対し、趙匡胤は笑って「自分は人を厚く信頼している。どうして汝だけ信じないことがあろうか」と言い、その酒杯を飲み、新しく酒を酌み劉eに飲ませたという。


建国当初、しばしばお忍びで出かけたことをある臣下に諫められたことがあったが、「自分は天命が下ったので天子になったのであり、世宗が部将の中で顔が広く耳が大きい者を次々に殺していたが、自分は(そのような容貌であるのに)世宗の側にずっと侍していたが、殺されることはなかった」と言い、ますますお忍びで出かけることが増えた。さらに諌める者がいると、「俺は天子なのだから、俺の好きなようにさせろ。お前に指図されるいわれはない」といったという(『宋史』本紀第三 太祖三)。

ある日、政務をやめて不快そうに座っていたので、側近がその理由を尋ねると、「天子であることは簡単なことだといえるだろうか? ある事案を早合点して誤って決してしまったから、不快なのである」と答えたという。

節約を旨としており、娘の魏国長公主が肌着にカワセミの羽を装飾に使っているのを見て、戒めて二度とさせなかった上、「お前は富貴な身分として育った。そのことの有難味を思いなさい」と説教したという。また、後蜀の最後の君主であった孟昶が杯に宝飾を凝らしているのを見て、これを取りあげて砕き、「お前は杯を七宝で飾っているが、何の器で飲食する気なのだ。そのようなことをしているから国を亡ぼしたのだ」と叱咤したという。

晩年は読書を好み、『書経』を読んで嘆いて「古の帝王のの世の中は四人の悪人を追放するだけであったが、今の世の中は法が網のように密である」と言った。

弟の趙匡義(後の太宗)が病気にかかると自ら薬を煎じて飲ませ、近臣に「弟は龍虎のように堂々としており、生まれた時に異兆があった。後日必ず泰平の世の天子となるだろう。ただ福徳の点では私に及ばない」と語ったという。

石刻遺訓

石刻遺訓は、趙匡胤が石(鉄という説もあり)に刻んで子孫に伝えた遺言で、宋朝の皇帝が即位する際、必ずこれを拝み見ることが慣わしとなっていた。ただし、その存在は秘中の秘とされ、ごく一部の宮中の人間にのみ伝えられた以外は、宰相ですら知らなかったという。金軍の侵入で王宮が占領された際に発見され、初めてその存在が明るみに出た[3]

そこに刻まれていた遺訓の内容は以下の2条である(『宋稗類鈔』巻一「君範」[4][5]陶宗儀説郛』によれば、正確には3つあり、第3条は上の2条を子孫代々守れという内容であった)。

趙匡胤に皇位を譲った柴氏一族を子々孫々にわたって面倒を見ること。

言論を理由に士大夫(官僚/知識人)を殺してはならない。

この2つの遺訓が歴代の宋王朝の皇帝たちによって守られたことは、南宋が滅亡した崖山の戦いで柴氏の子孫が戦死していること、政争で失脚した官僚が処刑されず、政局の変化によって左遷先から中央へ復帰していること(例:新法旧法の争いでの司馬光や対金講和派の秦檜など)が証明している。趙匡胤の優れた人間性が後の宋王朝の政治に反映されたことを、この石刻遺訓は物語っている(陳 1992)。
宗室

正室:会稽郡夫人賀氏(贈
孝恵皇后

長男:滕王 趙徳秀 - 夭折

次男:燕懿王 趙徳昭

三男:淑王 趙徳林 - 夭折

長女:魏国大長公主

次女:魯国大長公主


皇后:王皇后(孝明皇后

四男:秦康恵王 趙徳芳 - 南宋の第2代以降の皇帝の先祖


皇后:宋皇后(孝章皇后) - 宋?(後唐の義寧公主の子)と後漢の永寧公主のあいだの娘。

側室:花蕊夫人 - 元後蜀の後主孟昶の側妃

生母不詳の子女

三女:陳国大長公主

四女:申国公主 - 夭折

五女:成国公主 - 夭折

六女:永国公主 - 夭折


関連作品
趙匡胤を主人公にした小説


小前亮『飛竜伝:宋の太祖 趙匡胤』(講談社、2006年) ISBN 4-06-213785-2

『宋の太祖 趙匡胤』(講談社文庫、2009年)に改題。『飛龍全伝』の翻案小説。


趙匡胤が登場するテレビドラマ


楊家将伝記 兄弟たちの乱世(2006年、中国、演:温海波)

傾城の皇妃 ?乱世を駆ける愛と野望?(2011年、中国、演:喬任梁)

大宋伝奇之趙匡胤(2015年、中国、演:陳建斌、日本未公開)

脚注[脚注の使い方]^ 『飛龍全伝』に「姓趙。名匡胤。表字元朗。」とある。野史『羅雲村史』にもあり。正史『宋史』では字を記さない。
^ a b 宋史本紀太祖三による。本紀真宗二では啓運立極英武聖文神徳玄功大孝皇帝とする
^ (陳 1992)
^ 誓詞三行:一云柴氏子孫有罪,不得加刑,縱犯謀逆,止於獄中賜盡,不得市曹刑戮,亦不得連坐支屬;一云不得殺士大夫,及上書言事人;一云子孫有渝此誓者,天必?之。 宋稗類鈔 参照。
^ 第1条の内容は、陳舜臣が紹介したものとやや異なっており、「柴氏の子孫が罪を犯しても処刑しないこと。謀反を起こした場合も獄中で賜死させ、(謀反人への処遇である)公開処刑は行わないこと、また一族に刑を連座させないこと」となっている。

参考文献.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、趙匡胤に関連するカテゴリがあります。

竺沙雅章『独裁君主の登場 宋の太祖と太宗』清水書院〈清水新書045〉、1984年11月。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4389440459


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:26 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef