越後長岡藩
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以後、明治の廃藩まで250年間封地を動かず長岡藩主として連綿した。
江戸藩邸および江戸における菩提寺

江戸武鑑上において元文6年(1741年)頃の江戸藩邸は上屋敷は西ノ窪、中屋敷は愛宕の下、下屋敷は薬師堂前と渋谷の2か所であった。しかし江戸時代後期以降、江戸藩邸は所在地移転や藩邸数増減があり、慶応2年(1866年)頃には上屋敷は呉服橋内に、中屋敷は愛宕の下と呉服橋内に、下屋敷は深川に2か所(浄心寺前、平井町)と渋谷にあったと掲載されている。

また、藩主一族や家臣が江戸で死去した際に使用した菩提寺は忠寿死去以降から、牧野忠成と念無上人が開基である三田台町の浄土宗寺院の済海寺に固定化する。
藩政
藩領の開発

越後長岡藩領は堀直寄による立藩以来、古志郡の長岡城下町周辺から下流に向けて信濃川に沿って広がり、信濃川河口の港町新潟も藩領の一部であった。この地域は信濃川とその支流がおりなす低湿地が広がり、中世まで開発が遅れていたため、長岡藩は藩の創建当初から治水事業、新田開発に力を注いだ。寛永11年(1634年)には藩主忠成が次男と四男にそれぞれ1万石と6千石を分与したが、いずれも分与は新墾田分から出された。加えて新田に対しては3年間の免税も行われた。新田開発等によっても藩の表高は変わらなかったが、年貢実収では正徳5年(1715年)から安永元年(1772年)までの年平均でみると11万8千石余と表高を遙かに超えていた。しかし、その後は天候不順などにより年貢収納率が低下し、年貢実収は11万石を下回るようになった。
農民一揆と栃尾問題

栃尾は、上杉謙信が幼少期から元服して長尾景虎と称し、兄の長尾晴景と対立していたころに本拠地としていた。謙信の旗揚げの地であったために人々の団結が強く、また渓谷の合流地点でもあるために割拠がしやすい土地柄であったとされる。加えて栃尾組は『山ばかりの組方』と呼ばれて、谷合いの川に沿って村落と農地があるので水害が多く、加えて地滑り山崩れ(俗に「山ぬけ」「ぬけ」「脱狂い」などと呼ばれる)が多く、作付け不能の田が続出し、作付けできても肥料もちが悪く、年々不良が続く有様であったとしている。

そのような背景のため、江戸時代になっても一揆の頻発地となり、加増地として得た栃尾1万石新領主の越後長岡藩主・牧野家は支配のため栃尾代官を置いた。『新潟県史・通史3・近世一』によると、藩からは村側からの要求があれば代官を通じて年貢減免や救米の手当てがあったとする。しかしながら、越後長岡藩は栃尾での一揆に長く悩まされることになった。

一揆の代表的なものとしては、栃尾においては、元和7年7月(1621年8月・新暦)に長岡藩の検地への抵抗による「縄一揆」や、元禄3年(1690年)に租税収納問題から栃尾郷塩谷村21か村が徒党を組み強訴に及んだほか、嘉永6年(1853年)には幕末の政情不安の中で栃尾郷諸村1万人打ちこわし事件(栃尾騒動)が起きた。
幕政参与

譜代大名としての立身はそれほど早くはなく、江戸時代の前半には幕閣に名を連ねた藩主もほとんど出なかった。しかしその後、藩主牧野家において公卿や諸大名との婚姻・養子縁組が積極的に進められ、江戸後期には幕閣にも名を列ねるようになった。

寺社奉行や京都所司代を務めた牧野貞通の子を立て続けに藩主に迎え、また松平定信の親族に連なったこともあり、牧野忠精天明元年(1801年)に老中に任ぜられ、寛政の遺老の一人として名を残した。

忠精に仕えた山本老迂斎(勘右衛門義方)は、6人の主君を補佐した名家老として著名であり、特に忠精に対しては老骨に鞭を打って献身的に尽くし、帝王学を授けた。

この忠精を皮切りに、幕政に重きをなすようになり、忠精、忠雅、忠恭と3代続いて老中を出した。

しかし、幕政参与のために借金がかさんで財政が悪化し、藩内で財政改革策を講じなければならなかった。天保の改革直前の天保11年(1840年)には庄内藩川越藩との三方領地替えが計画され、牧野家は川越藩に移されそうになった。長岡藩内では特に反対の声は上がらず、動揺しつつも準備を進めていたが、庄内藩で領民の反対運動が起こったために計画は見送られた。
幕末・維新期の混乱北越戦争を描いた浮世絵。画題は『越後国上杉景勝家督争合戦』であるが、時の政府に配慮して上杉景勝・景虎の家督争い(御館の乱)に見立てて描いたもの。新潟県立図書館[6]

幕末には河井継之助郡奉行に就任したのを機に、それ以後、藩政改革を行って窮乏する藩財政の立て直しをはかるとともに、兵制を改革してフランス軍に範を取った近代的軍隊を設立した。慶応4年/明治元年(1868年)、戊辰戦争が起こり藩論が佐幕か恭順かで二分すると、家老に就任した河井は藩主の信任のもと恭順派を抑える一方、佐幕派にも自重を求め、藩論の決定権を掌中に収めた。さらに、新政府軍からの献金・出兵要請を黙止し、会津藩などからの協力要請に対しても明言を避け、中立状態を維持した。新政府軍が小千谷に迫ると、河井は陣地へ赴き、平和的解決のための調停役を願い出た。しかし、密偵草莽の情報により長岡藩を会津側とみなしていた新政府軍は、これを詭策と判断し一蹴した(小千谷会談)。会談が決裂したため、ここにきて藩論を戦守と定め、奥羽列藩同盟に加わり新政府軍との戦闘を開始した(北越戦争)。激戦の末、陥落した長岡城を一時は奪還したものの、火力・兵員共に圧倒的に上回る新政府軍に押されて再び陥落し、領民や藩士たちは会津へと落ち延びた。

長岡藩は多くの戦死者(309人説が有力)を出した。これは会津藩23万石(内高40万石強)、仙台藩62万石(内高100万石)、二本松藩10万石(内高14万石)に次ぐ戦死者で、藩の規模・戦闘員の員数を考えると、長岡藩7万4000石(内高14万石)の犠牲は大きなものであった(藩の実際の実力は、表高ではわからず内高が重要である。東北地方などでは太閤検地の数字をそのまま使用していた場合が多く、内高との差が大きい傾向があった。例えば徳川御家門会津藩の内高は御三家水戸藩を大きく上回る。詳細は内高を参照)。


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