京都や奈良をうかがうのに近すぎず遠すぎずの大国[3]でもあり、古来、この地に拠って天下を争い、滅んだ武将が少なくない。新田義貞、朝倉義景、柴田勝家が挙げられ(特に義貞の籠城は、のちに即位無効とされたものの新天皇を推戴してのものである)、主将としてではないが大谷吉継、この地を再起の拠点として逃れる途上で殺された藤原仲麻呂などもこれに準じる。明智光秀も、一時期同国の住人であった。継体天皇は、越前国から大和へ迎えられたとされ、万葉歌人としてよく知られる志貴皇子(天智天皇皇子)の母「越道君伊羅都売」もこの国の出自と考えられている。他に、直接天下取りに動いたわけではないが、徳川家康の次男であり英邁をうたわれながら弟の徳川秀忠に後継を譲らざるを得なかった結城秀康も、この地の領主として後半生を送った。米の産地として播磨国と「一播二越」(いちばんにえち)と称された[4]。 明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。太字の自治体及び郡は全域が、通常体は一部が国土にあたる。
近世以降の沿革
「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(1,495村・680,914石余)。太字は当該郡内に藩庁が所在。国名のあるものは飛地領。
南条郡(89村・35,502石余) - 幕府領(福井藩預地)、旗本領、福井藩、丸岡藩、鯖江藩、若狭小浜藩、三河西尾藩、美濃郡上藩
今立郡(191村・85,575石余) - 幕府領(福井藩預地)、旗本領、福井藩、鯖江藩、若狭小浜藩
丹生郡(231村・86,692石余) - 幕府領(本保代官所・福井藩預地)、旗本領、福井藩、鯖江藩、大野藩、三河西尾藩、美濃郡上藩
大野郡(258村・96,259石余) - 幕府領(本保代官所・福井藩預地)、福井藩、大野藩、勝山藩、鯖江藩、美濃郡上藩
足羽郡(158村・88,467石余) - 福井藩
吉田郡(136村・80,191石余) - 福井藩
坂井郡(351村・185,419石余) - 幕府領(本保代官所・福井藩預地)、福井藩、丸岡藩、三河西尾藩
敦賀郡(81村・22,806石余) - 旗本領、鞠山藩、若狭小浜藩、安房勝山藩、幸若氏知行
明治2年
6月23日(1869年7月31日) - 安房勝山藩が、越前勝山藩、美作勝山藩との区別のため、任知藩事後に加知山藩に改称。
6月24日(1869年8月1日) - 版籍奉還により鞠山藩(通称)の正式名称が敦賀藩となる。
明治3年
3月23日(1870年4月23日) - 敦賀藩が改称して鞠山藩となる。
9月17日(1870年10月11日) - 鞠山藩が小浜藩に編入。
12月22日(1871年2月11日) - 幕府領・旗本領が本保県の管轄となる。
明治4年
7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が福井県(第1次)、勝山県、鯖江県、大野県、丸岡県および加知山県、小浜県、西尾県、郡上県の飛地となる。
11月14日(1871年12月25日) - 第1次府県統合により、加知山県の管轄区域が木更津県の管轄となる。
11月20日(1871年12月31日) - 第1次府県統合により、敦賀郡・今立郡・南条郡が敦賀県、残部が足羽県の管轄となる。
明治6年(1873年)1月14日 - 全域が敦賀県の管轄となる。
明治8年(1875年)8月21日 - 敦賀郡が滋賀県、残部が石川県の管轄となる。
明治14年(1881年)2月7日 - 全域が福井県の管轄となる。
昭和33年(1958年)10月15日 - 大野郡石徹白村が岐阜県郡上郡白鳥町(現・郡上市)に編入。
領域
福井県
福井市
敦賀市
大野市
勝山市