国府は、射水郡にあった。現在の高岡市伏木古国府。現在の勝興寺の附近が国府跡とされており、境内に「越中國廰址」の石碑が立てられている。また、近くの高岡市伏木気象資料館(旧伏木測候所)が「東館(ひがしだち)」という小字名から国司館跡と想像され、「國守館址」の石碑が立てられている。しかし、敷地内からは9世紀の建物跡が発掘されているが、奈良時代のものは確認されていない。平安時代末に新湊(現射水市)に移されたことがあり、太平記には新湊での戦いが記録されている。 国分僧寺は現在の高岡市伏木一宮にあり、気多神社の近くの「国分寺跡」に薬師堂が建立されている。 尼寺の遺構は、現在まで発見されていない。 能登国が越中国の一部であった時代、越中国の一宮は現在の気多大社であったが、能登国を分立する際に二宮であった射水神社が越中国一宮とされた。白山比盗_社の社伝『白山記』には、「二神(射水神社)が元々の一宮であったが、新気多(気多神社)に一宮を取られた」とあり、気多大社から分祀して国府の近くに新たに創建された気多神社(新気多)が力をつけ、二上と新気多とが勢力争いをした結果、新気多が勝って一宮を名乗るようになったということになる。延喜式の写本における名神大社の異同もこの勢力争いの結果によるものとみられる。ただし、気多神社は新しく作られた神社ということで、名神大社でありながら射水郡の最後に書かれている。 後に気多神社の社勢が衰え、また、平安時代末の一時、国府が礪波郡に移された関係から、礪波郡の高瀬神社(南砺市高瀬)が一宮を名乗るようになった。室町時代の『大日本国一宮記』では越中国一宮は「礪波郡の氣多神社」としているが、これは同じく大己貴命を祭神とする気多神社と高瀬神社を混同したものとみられる。一宮について各国一社のみを記す書籍では、大日本国一宮記の地名の記載の方を正として、越中国の一宮は高瀬神社と記しているものが多い。だからと言って高瀬神社のみが一宮であるということでもない。江戸時代に全国の一宮を巡拝した橘三喜は、「越中の一宮は礪波郡にあるらしいが、それらしき社は見えず」とし、射水と気多にのみ参って高瀬には参っていない。 中世に書かれた『神道集』では、越中一宮は立山権現(雄山神社(立山町))であると記されている。これは中世以降の立山信仰の普及に伴い、その中心地である立山権現が一宮とみなされたものとみられる。 現在では射水・気多・高瀬・雄山の4社ともが「越中国一宮」とされ、全国一の宮会に加盟している。 ※以下四郡は、大宝2年(702年)3月に越後国へ移管 ※以下四郡は、天平13年(741年)12月-天平宝字元年(757年)5月の能登国が越中国に併合された期間のみ
国分寺・国分尼寺
神社
延喜式内社
『延喜式神名帳』には、大社1社1座・小社32社33座の計33社34座が記載されている。全てのリストは越中国の式内社一覧を参照。大社は射水郡にあったとされるが、写本により異同があり、以下の2社の説がある。
射水郡 気多神社 - 九条家本(最古の写本)に拠る。高岡市伏木一宮。
射水郡 射水神社 - 出雲本に拠る。江戸時代までは現在の高岡市二上にあった。
総社・一宮
総社 不明
一宮 射水神社、気多神社、高瀬神社、雄山神社
地域
郡
礪波郡 - 西南部。明治29年、東礪波郡・西礪波郡に分割
射水郡 - 西北部。明治29年、氷見郡を分割
婦負郡 - 中部。
新川郡 - 東部。明治11年、上新川郡・下新川郡に分割。明治29年、上新川郡より中新川郡を分割
頸城郡
古志郡
魚沼郡
蒲原郡
羽咋郡
能登郡
鳳至郡
珠洲郡
人物
国司
越中守
田口年足 〈天平4年(732年)-〉
大伴家持 〈天平18年(746年)6月21日[5]-天平勝宝3年(751年)以前 〉
茨田王
石川豊人〈天平勝宝6年(754年)5月14日〉
阿倍広人〈天平宝字5年(759年)1月16日〉
佐伯御形 〈天平神護3年(767年)〉
甘南備伊香〈神護景雲2年(768年)6月3日〉
石川真守〈宝亀3年(772年)4月27日〉
牟都伎王〈宝亀7年(776年)3月6日〉